大学教員から写真家への変身(あるいは長い自分語り)
小笠原から帰ってきたら、日経COMEMO公式が「あなたが変身した話」を募集されていることを知った。投稿期限は今日の18時。今14時11分。うん、まあ間に合う。てことで、多分比較的レアケースと思われる僕のキャリアパスについて書かせて頂こうかなと。
正確には変身というよりは、大学教員は続けているので、キャリアの増加という感じなんですけれど、でも個人的には写真という選択肢が増えると増えないでは人生の航路が完璧に変わってしまったので、変身と言っていいかなと。そしてその顛末は今まで割と曖昧に、細切れに話してきただけなので、少しまとめてみますね。
(注:長い記事になったので、まとめだけという場合は、下の目次から「5.もし何か特別なことをここから見出すなら」に飛んでください。大事な部分はそこにまとめて書きましたので。)
1.僕にとって仕事ってなんだろう?
そもそも僕にとって仕事というのは難しい問題でした。大学院に入る時の面接の先生の質問が、今をもって忘れられません。
「文学系で大学院を出ると、就職は本当に大変だけど、その辺考えてる?」
「修了後のアテはある?教員免許は持ってるか?」
まだ大学院に入ってもいないのに、修了後のことや教員免許のことを聞かれたのには訳があります。僕が大学院の入学先として選んだのは、文学研究科の英米文学専攻。ものすごくぶっちゃけて言っちゃうと、大学院修了後の就職の選択肢は極めて狭く限られる分野になります。
大学院の重点化が叫ばれたのはもうだいぶ前ですが、それ以降、一気に日本の修士号、博士号の取得者は増えて、いわゆる「研究者」という肩書きも一般化した訳ですが、弊害も出ました。大学のポストが研究者の増加に追い付かなかったんです。その中でも文学のポストというのは、実学とは極めて遠い場所にあるので、近年では減少の一途を辿っています。そんな中で大学の「新卒」という「肩書き」(今を持って日本最強の肩書きでしょう!)を捨ててまで、さらに2年間、もしかしたらもっと長く「文学」などを研究するというのは、ある意味では社会的な自殺行為にも近いものだったのかもしれません。
実際1年に何度かは、いわゆる「高学歴ワーキングプア」のニュースが目に飛び込んできます。日経のこちらの記事も、前半はまさに身につまされるような内容が書かれていました。
この記事の牧野崇司さんは最後に「データサイエンティスト」としての活路を見出されているんですが、僕のいた文学という分野では、そのような応用的な転換が極めて難しい。だからこそ、大学院の先生方も、「親心」のような気持ちで、面接の際に最初の質問をされた訳です。
僕のような「文学研究者」にとっては、働くということそのものが、そもそも自明の概念ではなかった。「どのような働き方が、僕のような実生活に役立たない学問を選んだ人間に可能だろう?」そういう問いが、常に在学中に頭にありました。
2.転換はある日突然やってくる
上の記事の牧野崇司さんは、自ら道を切り開かれたのですが、僕の場合は30代の半ば頃は二進も三進も行かない状況でした。その辺りの詳しいことは、以前少しここに書きましたので、よければご参照ください。
働けど働けど暮らしは楽にならず。朝から晩まで詰め詰めのスケジュールで授業を組んでも、せいぜい年収は600万というところ。これでも、文系の研究者としては恵まれている方でした。僕は英語のコマがあったし、高校や中学でも授業があったし、塾や予備校でも教壇に立つことができました。でも、本当に隙間を埋めるように仕事して、空いた時間を研究論文を読んで、さらに休日は論文や発表をこなしてとやっていくうちに、徐々に自分の内側で「限界」が見えてきます。どんなに頑張っても、見込みがでなさそうで、しかもこの年収600万円は、若さに任せてゴリゴリに働いての最上の限界。これ以上仕事を増やすのは肉体的にも精神的にも無理だし、少しでも体を壊せば、一気にレッドゾーンに近づく。僕の友人は、体を壊して一気に年収が半減しました。そうなると300万を切ってくる。老後に向けての蓄えなんて夢のまた夢。少しずつ焦燥が内側を蝕んでいきます。
でも次の手を打てないんですね。1日やることを終えるともう夜中の2時とか3時。朝は6時半には起きないと1コマ目の授業に間に合わない。何も考えられない毎日が続きます。いずれ限界が来るだろうことは、少しずつ意識していました。
そんなある日、同期の研究者が、たまたま一眼レフを持って大学に遊びに来ました。そのカメラは、当時のエントリーモデルの中のエントリーモデル、皆さんが「一眼レフ」と聞いて最初に思い浮かぶであろう、CanonのEOS Kissシリーズ、通称「キスデジ」と言われるものだったんですが、当時の僕にしたら、カメラに数万円も出すなんて!と驚いたのを覚えています。しかもレンズに2万円の追加投資!!レンズ別売り!?この金持ちのボンボンめー!!と、悔しく思ったのも覚えています。
今の僕はといえば、今度出るソニーのミラーレス一眼の新型機90万円を買おうと画策している状態で、隔世の感とはまさにこのこと。でも上のような、数万のエントリーモデルさえ「道楽の極み」と思って驚愕していたのは、今からたった11年ほど前のことです。その頃、カメラにお金をかけるなんて、全く考えることさえありませんでした。
ところが僕は、割と人に影響を受けやすいタイプで、その同期の仲間からカメラを見せられて数週間後、同じエントリーモデルの中古を手にしていました。「金持ちのボンボンめー!」と反発したのもわずか数分、一眼レフの裏の背面液晶に映った「写真」があまりにも美しく、一瞬で魅せられてしまったからです。
この、なんでもない、ただの日常の一幕が、僕の人生の全てを変えることになりました。こんなに変わることになるとは、全く予想できなかったほどに。
3.とんとん拍子で色々と、というわけには行かない
よくあることですが、カメラを買ったらそのまま全く使わずに、「結局スマホでいいやん?」みたいな話ってよく聞きませんか?僕の友人でも、一眼は持ってるけど、押し入れに入ったままという人も結構います。僕もそうでした。最初にかった中古のKiss X2は、なんと数回に一回、シャッター幕がうまく降りなくて、まともに写真が撮れないという半壊の品だったんです。最初それにあまり気づいてなくて使い続けているうちに、中古保証の1ヶ月が切れて、そのまま使い続ける羽目になりました。今なら面白いと思えるそんな不具合も、当時は、盛り上がったテンションを冷やすのには十分すぎるほどのマイナス点。僕のカメラとの出会いも、ご多聞に漏れず、押し入れ行きの運命をたどります。
ただ、やはり運命の糸は続いていたんだなと思う出来事が、その2年後に起こります。押し入れカメラになって2年後のある日、実家が水道周りの修繕工事をやったんですね。その修繕工事がなぜか僕の部屋で失敗して、部屋が水浸し。その補償金を結構いただくことになりました。保全をして壊れた品などを直しても、いただいた補償金の一部かかなり手元に残ることになりました。さて、このお金、何に使う?
株に投資でもしようか?
中古の車でも買う?
降って沸いたお金の使い先をあれこれ夢見心地で考えていた時、ふと、押し入れのすみっこのカメラのことを思い出しました。僕は自他ともに認めるほどに趣味の無い人間です。せっかく始めたカメラも、押し入れの隅っこ。急にカメラに対して申し訳ない気持ちになりました。
ふとカメラの雑誌を見ると、ニコンという会社が、当時としては破格の3600万画素で撮影できるD800というカメラを出すという宣伝をしていました。「これだ!」と思ったんです。
僕は割と宣伝されやすい人間であることはすでに書きました。そのうえさらに、割と形から入っちゃうタイプの人間でもあります。自分で書いてて情けなくなりますが、「最高の機材を買ったら、老後まで楽しめる趣味になるに違いない!」と、30万円するカメラボディと、20万円するカメラレンズを購入することにしました。
人生で一番大きな買い物、品物を受け取るときは手が震えたのを覚えています。
「俺はなんて馬鹿なことをやったんだ」と、買った直後に後悔しました。
そしてその後悔は、僕を駆り立てます。「少なくとも値段分だけは、シャッターを切らなきゃもったいない。少なくとも50万回はシャッターを切ろう」
こうしてその日から、週末フォトグラファーとしての真剣な活動が始まります。そしてそれがついに僕の人生の航路を、大幅に変えるきっかけになります。今から考えると、この50万円の自己投資は、当時本当に馬鹿なことをやったと思ったけど、最高のチョイスになりました。
4.いくつかのきっかけ
その後は自分でも信じられないような流れで話が展開していきます。D800を買って1年半ほどした頃、当時ウェブ上で話題になりつつあった、今ではオンラインでのカメラ界では知らぬもののいない、「東京カメラ部」というグループの年間ベスト10人の一人に選ばれました。今では2000万枚の投稿から選ばれるほどの倍率になっているこのグループの10人に選ばれたことで、写真家としての道が開けます。ただ、それはあまりにも僕には重荷が過ぎて、一時は道を失いかけました。その時のことは、ここに少し書いています。
この頃、SNSに本格的な写真が少しずつ現れる頃でした。ただ、今のように、毎日どこかの誰かが写真でバズっているような世界ではなく、まだプロの写真家のほとんどはSNSを真面目に考えていなかった時期でもあります。時間でいうと2015年の頃です。その頃、僕のフォロワーはせいぜい500人でしたが、あるツイートを契機に、2週間ほどで2万人の方にフォローいただくことになりました。
元ツイートは、ちょっとした事情があって消しちゃったのですが、その時の顛末はウェブにたくさん残っています。1ヶ月ほど話題が続きました。ビートたけしさんのバラエティ番組で紹介してもらったり、ラジオに出演させてもらったり、新聞に載せてもらったり。そんなこんなで、世間的に少し知っていただけるようになったのがこの頃です。2015年の11月頃。
さらにそこから、2年後には、風景写真系ではおそらく世界最高峰のNational Geographic Photo Contestの「空撮部門」の二位に選んでいただきました。
あまりにも予想外のことが重なり、そして今に至りますが、結局僕自身は「これをやろう!」とめざしてこうなったわけではなく、その時どきに起こった偶然が重なり合って、今ここにいます。そして現在僕は、「文学研究者/フォトグラファー」という、二足の草鞋を履いて活動をしています。
5.もし何か特別なことをここから見出すなら
ただ、「偶然」が重なり、今僕は自分でもよくわからないキャリアパスを歩んでいるわけですが、巡ってきた機会がどんなものであり、そこで自分は何ができるのかを常に考えてきたのかという経験は、何らかの教訓としてお伝えできるかもしれません。この約10年間のキャリアの大転換で、特に僕が意識したのは、2つのこと。「その間」と「言葉」でした。
「その間」というのは、二つのキャリアの間に広がる空間のことです。僕は文学研究者としても二流で、写真家としても三流でした。そのどちらにおいても、一流の本物たちの凄まじい成果には追いつけないことは、自分自身でよくわかります。ただ、この二つのキャリアを、リアルタイムに、最前線近くでやれている人は少ないはずなんです。つまり僕は「文学研究者」としてのキャリアも、「写真家」としてのキャリアも、それぞれを相対化できる位置に自分を置くことができる。それこそ「その間」という考え方ですし、そして僕はそれをよく「獣道」に喩えます。
組み合わせることができなさそうに見える「文字の世界」である文学と、「ビジュアルの世界」である写真、その間には、未踏に近い大地が横たわっている。そこを自ら踏み分けて歩くことができれば、「どのような働き方が、僕のような実生活に役立たない学問を選んだ人間に可能だろう?」と悩んだ、20代中盤の自分の疑問に応えることができるかもしれない。そう考えて今自分のキャリアをあえて複数化したままでやっています。
もう一つ大事に思っているのは、もちろん「言葉」です。それは日経COMEMOのKOLとして書かせていただいた一回めの記事に詳しく書きました。
「世界は言葉によって認知されている」というのは、僕の文学研究者としての基本的なスタンスです。そしてそれは写真家という「ビジュアルで語る専門家」になってさえ、そう思うのです。写真もまた、文字ではない言葉であり、ストーリーであると。
そのように考えて、「言葉」を根源に置いた活動をしていれば、いずれ自分が中途半端に置き去りにしてしまった「文学研究者」としての過去も、救われるのではないか。そんなことを今思っています。村上春樹的にいうならば、それは「ささやかな自己療養の試み」とも言えるかもしれません。
最初に引用した記事をもう一度引用させてください。その記事の最後には、こんなことが書かれているんです。
とはいえ、研究への気持ちはそう簡単に断ち切れるものではない。もし、研究に集中しながら安定した生活を送れていたら。そんな思いが一切ないと言えばうそになる。それでも「最善の選択をしてきた結果が今」。後ろ髪はひかれても、後悔はない。充実した日々に、強がりでなく心からそう感じる。(上記記事より引用)
やっぱり道なかばで置いてきた「研究への気持ち」って、本当に「そう簡単に断ち切れるものではない」って、多分、研究者は全員思うんです。だから僕自身も、その過去の意味を今に活かせないかと考えた時に選んだのが、「言葉」というエッセンスでした。だから他のどのジャンルへと動いていって、そこで元の姿もなくなるほどに「変身」したとしても、そのエッセンスだけは死守しようと考えました。そしてそのような決意は、noteというサービスであったり、日経COMEMOという媒体で書かせていただくことにつながってきていて、いま徐々に形になり始めているという実感があるんです。
そういうわけで、長々と書いてきた「自分語り」ですが、文学研究者や写真家という特殊な肩書きではなくても、複数の領域の間には「未踏の獣道」が広がっていることは、多分「キャリアの変身」をうまくこなした全ての人に通じる認識ではないかなと思うんです。そのことを今日はお伝えしておければと思って、書かせていただきました。現在15時32分、よし間に合った。
ではまた、次回は別の話を。