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小中学校で失われる創造性 〜これからの「自分起点」の教育のために親の世代ができること

お疲れさまです。uni'que若宮です。

以前こんな記事を書いたのですが、記事に対して「大学より以前の教育についてはどう思っていますか?」というご質問をいただきました。

また、先日こんな調査も出ていましたが、

「自分は創造力がないと思う」人の63%が小学校高学年から中学生の間で自信を失っていることが分かりました。また、「創造力があると思う」人もその多くが小学校高学年から中学生の間で自信を得たと回答しています。

小学校高学年から中学生のあいだの教育もとても大事です。僕自身、ちょうどその年代の子供を持つ身として、最近考えていることを書きたいと思います。


これからの教育に必要なのは「自分起点」を育むこと

アートシンキング文脈でもよく言っているように、僕はこれから教育において大事なのは、なによりも「自分起点」で考えられる力を育むことだと思っています。上の記事で言われる「創造性」というのもつまりは「自分起点」を信じる「自信」がなくなっていることではないでしょうか。


あるいは、教育は「教え、育てる」と書きますが、「育てる」の方がより重要になる、と言い換えてもいいかもしれません。VUCAと言われる「正解」がない時代においては、先生(先に生まれた人)や親が「正解」を持っているわけではないので、それをそのままに「教える」ことはあまり意味がない時代になってくるからです。

といっても、ただただ本人の自主性にまかせればよいということではありません。なぜなら、人はひとりでは「自分」をみつけることが難しいからです。

芸事の「守破離」のように、最初は「型」を守る、すなわち既存の考えや知識をいったん身につけることも大事です。しかし、それを「守」るだけではいけません。

学問や科学においても不変の真理というものはないからです。天動説から地動説にかわったり、ティラノサウルスに羽毛が生えたり、鎌倉幕府はイイクニつくらなくなったり、過去の学説や考えは変化します。そういう「真理」のアップデートこそが科学や学問の役目ですから、知識はいずれ「破」られることが大事です。

そして更にその先には、型を「離」れて自分らしい価値を創造できるようにならなければなりません。最初から「離」はできませんから、小中学校では「守」から始めることになります。しかし、重要なのは「守」はあくまで「離」のためにあるということです。これを忘れて子供が「守」(=教わったことを守り、その通りにする状態)にあるのを「正解」とすることは、むしろ「破」「離」へと進む道を閉ざすことになると思います。(この意味で小中学校の教育は「稽古」のようにあくまで本人の可能性を引き出すためにやるべきで、それは「躾(しつけ)」とはちがいます)

「教育」が「教え、育む」という順番になっているのにも意味があると思っていて、最初は「守」を教え、徐々に「破」「離」へと育てていく、ということだと僕は理解しています。そして、その時にこれからますます重要になるのはやはり「自分」起点なのではと考えます。


1.「自分なりに面白がる」ことを教える

さきほど書いたように、教育や学習は、いずれその人の「自分」らしさを見つけるためのものです。そのためにはなるべく個のそれぞれの関心を伸ばしていくことが大事です。

学校や受験の勉強は共通の「正解」を学ぶものですし一般論が多いので、そればかりやっていると、個の観点が失われがちです。だからこそ先々の「自分」らしい視点を育むためには、平板にまんべんなく「知識」を身につけるだけでなく、関心の凹凸が出るように導くことが重要です。(これが「破」の種まきとなります)

そしてそのために、まずは教える側の大人が「自分」なりの視点から「面白がる」姿をみせることが大事なのではないか、と思っています。我が家ではたとえば歴史や算数の話をする時にも、なるべく「この人のここがめっちゃやばいんだけど」とか「これをこうするとこうなるっていう数字の不思議超面白くない?」とか、僕の自分なりの視点や偏愛を伝えるようにしています。そしてその上で「この時代だったら誰が好き?」とか本人の偏愛みたいなものも質問してその理由をきいて、そこからお互いに知っていることを出し合い膨らませていきます。

こうする知識が「平板な知識」の状態から、個の関心にむすびつけられて凸凹したものに見えてきますし、凸凹してるほうがいいという感覚が子供の中に芽生えます。勉強や知識がつまらなくなるのはそれが「誰か」とか「みんな」のものだからで、もっと「自分」なりに面白がれたら面白くなると思っています。


2.「自分で学ぶ」ことを教える

学校や塾で教えられることはどうしても「共通」や「一般」のことだけなので、それだけでは「自分」らしい発見のためには足りません。学校や塾は入口にこそなれ(入口どころかフタになっているケースすらありますが)その先はそれぞれバラバラに掘り進むしかない。親が個別で教えることもできますが、親だって一生ついているわけにはいきません。

じゃあどうしたらいいか、というと「自分」で調べたり学べる「自活」の方法を身につけるしかないと思います。

一番よいのは本を読めるようになること、そして自分の関心にあった本を見つけられることです。たとえば図書館や書店に行って本を探してみたり、図書館の蔵書やネット検索で欲しい情報を見つけ、そしてその中から情報を取捨選択するリテラシーを育んでおくことがとても大事です。

学校や塾で得られる情報はあくまで共通の部分でしかないので、早い段階から「独学」できる力を育んでおくとやっぱり強い。なのでなるべく一緒に図書館や本屋さんにいったりインターネットで検索したりして、情報を探して見つけ、選ぶ、というのを隣でやるとよいとおもいます。(これは「泳ぎ方」を教えるみたいなもので、ちゃんとやっておかずにあとあと子供がひとりでSNSやインターネットの海に飛び込むことになるのはやっぱり危険ですし、逆に危ないからそこに近寄らせない、というのでは泳げるようになりません)


3.「自分でつくる」ことを教える

3点めに、これが一番大事だとおもっているのですが、学んだ知識を使って「自分なりのなにか」を「つくる」ことを教えることです。

たとえば子供が学校で国会の成り立ちや仕組みについて勉強しているとします。衆議院が何人で参議院が何人だとか、そういうやつです。

で、これをただ「知識」としてインプットしてもあまり意味はありません(ググったほうが早いし正確です)。大事なのはその「知識」を使って、「自分」だったらどうするか、ということだと思うのです。

たとえば自分が国会をつくるならどうするか?

議員は何人ずついたらいいのか?衆議院とか参議院とかそもそも2つ必要か?

いまの日本の国会の課題はなんだとおもうか?(たとえば高齢化や女性比率など)それを改善するにはどういう仕組だったらよいか?

などなど。

そういうことを考えつつ自分で設計してみると、そもそもルールをつくるというのがなかなか難しいことに気づきますし、いまそういうルールになっているのがどうしてか、という理由に思いを至らすきっかけにもなります。なにより、昔の人が決めたことや決まっている「決まり」がゼッタイではない、ということに気づいて、社会は自分たちがつくってよいし、つくらるものなのだ、というモードになることができます。


4.そのために、親が「自分」を教える

上に学校や塾は共通項や一般論しか教えられない、と書きました。これはあまりに乱暴な言い方です。もちろん学校でも先生方は時間を削って色々な工夫をされていますし、

私立の学校ではさらに高度な教育メニューを提供しているところもあります。

それにもかかわらず、あえて単純化して「一般論しか教えられない」と書いたのには理由があります。

それは「もっと親が子供の教育にコミットしてもよいのではないか」と思っているからです。


親が教育に関わる、といっても勉強してるかとか点数を監視しろ、ということではありません。ここで重要なのは「自分起点」ということですから、ヘリコプターペアレントはまったくの逆効果です。

そうではなくて、親は学校や塾ではどうしてもできない、子供の「自分」らしさや「いびつさ」を伸ばすこと、そこにこそコミットするべきだと思うのです。

「自分」なりの面白がり、「自分」で学び、そして「自分」で「つくる」こと。それはそもそも「正解」があることではありませんし、一般論では教えられません。「自分」というものを学ぶことの中に根付かせるためには、隣で親が「自分」ならどうするか、というのをさらけ出してやってみせ、一緒にやる。先ほど教育は「稽古」のようなものといいましたが、まさにそういう教科書にはできない個のあり方をその時その場で立ち上がらせることが、子供たちの「自分」を育むことになるのではないか、と思っています。


いま、「いい教育」というと、お受験をさせていい学校に入れることが「いい教育」と思われがちだったりします。

とても優秀で大きな企業で活躍している人や、起業家として事業を展開したり社会を変えていっている人でも、こと教育となると、なぜか画一的なものになったり、高額な塾や学校にまかせてしまいがちになったりします。

プロにまかせることはいいことですが、学校や塾は「受験」のプロではあっても「育てる」ことのプロだとは限りませんし、たとえそうだったとしても、家庭でできること、家庭だからこそできることはもっとあるはずです。それをしないのはとてももったいない。親として、「自分」をさらけ出し、「自分」を賭けてもっと教育にかかわってもいいのではないでしょうか。

とくに男性は、残念ながらまだまだ「育児」に関わる時間自体が少ない現状にあります。「育児」は身の回りの世話や家事はもちろんのこと、「教育」にしっかり関わっていくことも重要だと思うのです。

リモートワークや柔軟な働き方ができるようになってくれば子供と話す時間も増やせると思います。もちろん、時間が無い方もいらっしゃいますし、親子でいっしょに過ごせない方もいらっしゃいます。そういう時のセーフティネットとして学校や義務教育はあります。しかし、ここでいいたいのは、時間の多寡の問題ではありません。日本の親は、いつの間にか学校や塾に教育を外注し、任せることに慣れすぎてしまってはいないでしょうか?


家事や育児のなかで、僕は「教育」はとても重要だと考えます。なぜならそれは未来をつくることだからです。だからこそ、一般論や共通の仕方ではなく、その家庭らしい教育のあり方を議論し模索して、子供の「自分」らしさを一緒に育むことが大事だとおもうのです。そしてそれは、親自身にとっても「自分」を問い直し、再発見し、社会を「自分起点」で変えはじめるきっかけにもなるかもしれません。(「教育」を変えるために必要なのは、実は親世代の価値観のアップデートだったりします)


高級な既製服やオーダーメイドではなく、もっとDIY(Do it yourself)に教育を楽しんでいい

「自分なりに面白がる」「自分で学ぶ」「自分でつくる」ことを、改めて子供と一緒にやってみませんか?


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