しあわせは見つけたり、探す物ではない。何より状態ではない。
「しあわせ」について考えてみる。
不幸な人は何かに執着しているからだと思います。執という字にも幸がありますが、元来「幸」という字は「手錠」の意味です。不自由でなければ自由を感じられないのと同様、幸せもある程度の縛りがある小さなところでしか感じられないという解釈もありますが、そもそも「しあわせ」とは「幸」という字ではありませんでした。
文字の語源については、以下の記事本文をお読みいただきたいのですが、「幸せ」ではなく「仕合わせ」を考えることが大事ではないかという問いです。年収とか恋愛とか結婚とかそういうものだけに幸せがあると固執するのではなく「仕合わせ」という視点、名詞ではなく「仕合わせるという動詞」の観点で見てみると、違った景色が見えるのではないでしょうか。
東洋経済オンラインの記事、公開しました。前半データ分析で後半が哲学になっています。お時間のない方は3ページ目からをお読みください。
サムネの写真がシーソーになっていますが、なぜ幸福度の記事でシーソーの写真なのか?についても記事を読んで頂ければ納得かと思います。
おかげさまで大変読まれております。ランキング1位!ありがとうございます。単にデータの読み解きだけではなく、「幸せではなく仕合わせと捉えるという視点の大事さ」について書いています。お読みいただきましたら、ぜひ感じたことを一言何か添えてツイッターなりブログなりで拡散していただけると幸いです。
幸福度と年収との相関に関しては、こちらの日経の記事にもあるとおり、男女で違いがあったりします。年収があがればあがるほど幸福度が無尽蔵にあがるかといえば決してそうではありません。
もちろん、食うに困るほどの貧乏では幸福度もないと思いますが、金イコール幸福という直接因果と単純に結び付けられるものではありません。
東洋経済の記事の方では、未婚男性と既婚男性の年収別幸福度の違いをグラフにしていますが、1000万円の年収を超えると未婚男性だけ幸福度が下がるという興味深い現象もみられます。
金があっても幸せは感じられないが、金がなくても感じられるものが幸せだとしたら、しあわせとは一体なんでしょう?
ひとつヒントを言うと、しあわせは見つけたり、探すものではない。そもそもものでも状態でもない。人からもらうものでもない。しあわせとは各個人の内面から沸き起こる感情です。そして、その感情を生み出すのは行動です。何も行動しなければ生み出されません。つまり、しあわせとは動かないと感じないものなのです。
未婚より既婚の方が幸福度が高く、男性より女性の方が幸福度が高いという要因は、まさに「人とのつながり」の行動の違いなんではないかと思うわけです。
さて、毎度のことながら賛否両論が巻き起こっていますが、こんな意見がツイッターに寄せられました。意見というか文句ですね、
やめたれ!結婚出来ないのは年収が低いからだ!そう思いたいんだ!俺に原因があるため、結婚出来ない、モテない訳ではない!悪いのは国だ!世間だ!!そう思いたい人に現実を突きつけるなんて酷すぎると思うぞ!
気持ちはわかりますが、それもひとつの状態依存で危険です。「自分が不幸なのは金を稼げないからだ」と理由付けするのは一時の心の安心を得られるかもしれませんが、結局それは麻薬と一緒で、切れればまた何か自分ではない他者の責任を見つけようとします。それは際限なく広がり、やがて世界のすべてはおれの敵だという思考に勝手に落ちていきます。
また「金が稼げない」ことを理由にすべての行動をとめてしまうと、無意識に「金を稼げない」という城壁を自分の中に作り出しています。金を稼げるようになっても恋愛相手がいなかったらどうしよう…という不安からです。
それこそ杞憂でしかかないのですが、そういう状態に陥ると新たな不安に陥らないように現在の状態のままを維持することが自分を守ることだという矛盾した生き方に終始します。実はそれこそが「幸」という手錠や檻に自分を閉じ込め、自分で仕掛けた不自由さに自分で一生文句を言い続けるという地獄にハマるのです。
ツイッターなんかで見られますが、毎日毎日些細なことで、自分の正しさや主張ばかりに固執して「仕合わせる」どころか「仕分ける」ばかりの人がいますが、それこそ不幸の権化みたいな行動です。気に食わないものに文句を言う、誰かの粗探しをする、足を引っ張る。そんな行動からは不幸の芽しか湧いてこないのですよ。
誰も自分のシーソーに乗ってくれないからといって、「なんで誰も乗らないんだ?無視か?差別か?許さんぞ!」なんて大声張り上げていたら、余計に誰も寄り付かないでしょう。そういうことです。
まあ、最終的にはご自分の人生なので好きにすればいいと思いますが、気を付けていただければと思います。
もうひとつ異論がきました。僕の記事を真っ向から否定した上で、
幸せとは、安心な状態であること、そしてその状態が将来にわたっても維持できると確信できる状態です。何事にも不安がない状態のこと。
なるほど。あなたがそう思ってるならそれでいいじゃないですか、人それぞれですから。何もわざわざ僕をディする必要はないでしょう。以上終わりにしてもいいんですが、大きなお世話を言えば、ここには典型的な状態依存の罠が潜んでいると僕は思います。何度もいうように状態にしあわせなんて存在しません。無です。無。
たとえば、ものすごい悲惨な状態の時、人間はしあわせを感じないのでしょうか?状態にしあわせがあるという考えだと、大震災の時、避難所生活をしていたら、一瞬でもしあわせ感じないということになります。
そんなわけはない。みんなで炊き出しをしてけんちん汁を作っている時、それを誰かによそって渡している時、渡された時、食べた時、おいしいねって誰かと声をかけあっている時、そこに刹那のしあわせは生まれるものです。刹那ね。瞬間ね。でも、それもしあわせなんです。
そうした刹那のしあわせに気づき、大事にできる人が仕合わせを累積できる人になるのだということを俺は言っているのですよ。逆に、そういう場で状態が悲惨で不幸だからとずっとしかめっ面しかできない人間は死ぬまで不幸なんじゃないんですかね、と。それと何事も不安がない状態なんて本当に存在するんですかね?と。