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「ストリート発の流行を上流階級に模倣させる」

ラグジュアリーの新しい意味を探索はじめて、もうすぐ1年になります。これまでも、ここのコラムで何回もこのテーマに触れてきました。読者がいるかどうかはさはど気にせずに・・・。

ここラグジュアリー領域には、現代のビジネスが立ち向かう問題が全てあるだけでなく、それらに早急に立ち向かざわるをえない環境にあります。つまりは社会的責任やサスティナビリティといったことがビジネスの真正面のテーマとしてあります。なぜなら、ラグジュアリー分野の消費者がラグジュアリー企業はその面で「当然すべきこと」と期待し、かつこれがラグジュアリー企業の提供する商品の価格に「既に含まれている」と思われているからです。

サスティナビリティを売りにするブランドとは根本的に違う「育ち」といえます。加えて、今、さまざまなところで議論されるアートやアルティザン文化の位置づけも、ラグジュアリーの「得意分科目」です。

こうしてアイテムがはっきりと見えているにも関わらず、ラグジュアリーを語るのは容易ではないです。なぜならラグジュアリー企業はラグジュアリーと呼ばれることを嫌い、いわんや昨今の表現としてある「ラグジュアリー産業」などいう括りはもっての他であると考えているのが、「ホンモノのラグジュアリー企業」であるとの自覚があるからです。

ラグジュアリー産業と括るのは当事者ではなく、そこをリサーチやビジネスの対象とする第三者です。

この探索を始めて分かってきたことは予想以上に多く、その大きな収穫は、21世紀に生きるラグジュアリーの新しい意味は何か?ということを、誰も「権威」として表明していないだけでなく、どの方向にいけば意味が掴めるのか、それなりに確信をもっていても表明するほどの確信をもっていない、ということです。即ち、そうとうに迷っている。

ラグジュアリーといえば、日本では19世紀のフランスのブルジュワジーに好まれたブランドを想起することが多いです。そして今、彼らはコンテンポラリーアートを機動力として使っています。フランスの大資本のラグジュアリー戦略ばかりが、フランスの強い文化行政と相まって、それは日本に限らず、1つの現象として引用される強力な事例となっています。しかしながら、これは現代のラグジュアリーにとっての一面でしかなく、英国のバトラーやクラブにあるような世界やイタリアの職人芸に依拠した世界、あるいはスイスの時計など世界にはさまざまなラグジュアリーがあります。日本の茶道もそうでしょう。

このフィールドの市場の特徴は「狭く深い」です。大企業のグローバル戦略が、大きな組織で大きな市場に大量に売るのとは反対です。だからこそ、それぞれの国の企業がラグジュアリーブランドを育成するのは、夢物語ではないのです。成功が易しいという意味ではなく、大きな開発投資を必要とすることが必須条件ではなく、比較的に小さな企業で、そこそこの設備機械、いや逆にアルティザン(イタリア文脈でいえばアルティジャーノ)の手こそが勝負の肝であるのです。戦略的にアプローチしてかなりのレベルまでいけるフィールドです。日本の中堅以下の企業も挑戦できるところです。

実はここまでは導入です。長すぎる導入です。

ぼくが抱いている仮説があります。それは、これからの若い世代、マーケティングの世界で言われるZ世代(1995年以降の生まれ)はさまざまな観点から、英国の19世紀、ウィリアム・モリスがおこしたアーツ・アンド・クラフツを再評価していくだろうということです。クラフツマンシップとソーシャルとの両面から、Z世代の関心の的に嵌っています。産業革命によって粗悪品が出回ったところに中世の職人仕事を基調においたモノの復活を説いたモリスは、今後、10年間くらい、そうとうに語られる存在になるはずです。

実は、この21世紀のアーツ・アンド・クラフツの再評価が、ラグジュアリーの新しい意味を伴うのではないかとぼくは考えており、こうした動向を話題にする仲間を得たいと思っています。欧州と日本の両方に跨ぐカタチで。数週間前、東京でそんなことをForbes Japanの副編集長である谷本有香さんとお会いした際に話し、「誰か、このテーマの味方になってくれそうな人、ご存知ですか?」と伺ったら、数日して「この方がベストです」と紹介を受けたのが、服飾史家の中野香織さんです。

お名前は存じ上げていて、メディアでのコラムも拝見したことがありました(最近では、ケリングのフランソワ=アンリ・ピノーへのインタビュー)。しかし、ぼくとはカバーする領域が異なる方で、まったく縁のない方だと思い込んでいました。が、勘の良い谷本さんがご紹介くださるのであればきっと通じるものがあるはずと思い、お互いの都合もあったこともあり、翌日、即お会いしました。そうしたら、中野さんは英国のダンディズムに学生時代から関心があり、ラグジュアリーの何たるかをずっと考え続けてきた方だったのです。そして、ぼくがラグジュアリーの思索についての方向を説明したら、彼女の守備範囲のど真ん中だったようなのです。

その場で、中野さんの新刊をいただきました。下記です。

早速本を読んで「あっ!なんで、この人を無縁だと思っていたんだ!」と地団駄を踏みました。というのも、来週から発売になる拙著『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?:世界を魅了する<意味>の戦略的デザイン」でイタリアのメンズファッションの流れを掴むのに散々苦労したのです。個々のブランドの歴史や工房の紹介はあっても、ファッション、しかも男性のファッションについて社会と経営を視野に入れて語っている本は、思いのほか、乏しかったのです。ファッションに詳しい、あるいはその業界で働いている方も全体の流れを適切に話してくれない・・・。

中野さんの本を拝読し、こういう方に相談すべきだったと思ったわけです。いや、ダンディズムの本も書かれているのですから、そのあたり、ぼくの勘がきけば良かったのですが、恥ずかしながら、ぼくのファッション分野の感度の鈍さではそういう想像ができなかったのです。しかし、今からでも遅くない。ラグジュアリーの新しい意味を探っていくに、中野さんの知識と経験は頼りにできると確信をもちました。

この本のなかに中野さんのキャリアの原点になる人として、英国人のマリー・クヮントが紹介されています。。ミニスカートを起点とした若い世代の新しいスタイル(タイツ、下着、靴下、帽子、コスメティックス)を提案したデザイナーです。特にクヮントが開発した防水のマスカラは、女性を活動的にする大きな転機をつくるに貢献したといいます。中野さんは彼女の功績を以下のように表現します。

クヮントは「すべてを変えた」と評されるのだが、変えたのは服だけではなく女性のアティテュード(態度、考え方)、ひいては行動、ついには社会であった。ファッション史の流れも変えた。上流階級からストリートへ「下りて」くる流行ではなく、ストリート発の流行を上流階級に模倣させた。

中野さんはクヮントを大学の卒業論文のテーマに選び、インターネットのない時代に手紙でコンタクトをとり、クヮントから資料一式を送ってもらったというのです。ここに中野さんご自身の起点がある・・・とても挑戦的な道がこの先に切り開かれたのであろうことは想像に難くありません。

*冒頭の写真は、2月19日、ミラノのブルネッロクチネッリのショールームで開催されたプレゼンテーションの模様です。ここで、ぼくはクチネッリはアーツ・アンド・クラフツのイタリア版であると思いました。

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