正解のない時代だからこそのスローイノベーション 〜場所、時間、文化の制約を超えた、しなやかな参加型社会へ
(Photo by Walter Mario Stein on Unsplash)
コロナ禍が2年目に入った。10年前の東日本大震災の直後、「日本の成功の定義が変わる」と信じて独立・起業した私にとっては、震災後の「元に戻そうとする力」に抗いきれなかった記憶が思い出される。コロナ禍が震災と違うのは、局地的ではないこと、そして長期的に続くことだ。つまり、一言で言えば「逃げられない」ということである。
コロナ禍も大震災も、多くの悲しみをもたらした。しかし、社会を変容する大きなパワーを持っていることも確かだ。私たちは、コロナ禍から何を学び、どんな「新しい成功の定義」を再構築できるだろうか。
社会は持続可能性に向かい始めている
コロナ禍と時を同じくして、日本はカーボンニュートラルの達成を目標に設定した。
次の記事に、私たちが経済成長と地球の持続可能性を両立する「グリーン成長」のシナリオに乗り始めていることが書かれている。しかし、状況はそこまで単純ではないことも同時に示されている。ストックホルム大学のジョナサン・バルスビック氏の研究を参照し、「企業が描くこれらの物語は、環境負荷の低減(グリーン)と企業の成長(グロース)が両立するとの前提に立っている」が、「だが本当に"緑の成長"が実現可能かについては当初から経済学者の間で否定的な声が上がっており、状況は今も変わっていない」と指摘する。
しかし、SDGsへの投資は勢いを増しており、企業はSDGsへのインパクトを無視できなくなってきている。投資家がCO2排出量の多い企業から投資を引き上げる「ダイベストメント」に加え、脱炭素に有効な技術をもつ企業に投資が集中するなど、ビジネスをグリーン成長の方向に大きく後押ししているという。
さらに、都市の評価もSDGs先進度で見られるようになってくる。前回首位だった京都市が2位に下がり、1位にはスマートシティ化に向けて取り組むさいたま市が選ばれている。今はまだ定性的な評価だが、今後、地域のSDGsの社会インパクト評価が広がれば、SDGsへの取り組みの違いが地域の選別につながることにもなるだろう。
このように、企業も地域も持続可能性、グリーン成長に向かって大きく舵を切っていることになる。心に引っ掛かるのは、グリーンは良いとして、「本当にこれからも成長(グロース)が必須なのだろうか?」という問いだ。
社会はダイバーシティに向かい始めている
一方で、「人」の問題は「脱炭素」と並んで、ESG(環境・社会・企業統治)投資の大きなテーマである。次の記事は、「米証券取引所ナスダックが自市場の上場企業に対して、女性、黒人など人種的少数派(マイノリティー)、LGBT+と呼ばれる性的少数派を取締役会メンバーに加えるよう促す規則案を発表した」ことを紹介する。
日本は、企業における取締役会や管理職も、政治における議会でも、まだまだダイバーシティ(多様性)が高いとは言い難い。しばしば発生する議論は、「男女比率を一定にすべきだ」と「能力のない人を昇進させることは逆差別だ」という対立だ。この議論の前提には、「能力のある人が適正なポジションにつくべき」という「役割論」ではないだろうか。
創造的な対話に、ダイバーシティが役立つことに異論はないだろう。「誰を昇進させるか」ではなく、「誰を対話に参加させるか」が大事なのだ。ビジネススクールでの授業で行うチームワークで、中国からの留学生が入っているチームが、まったく違うコンセプトを生み出すことに驚かされたことがある。この留学生の能力が高いというよりも、多様性が高まったことで創造性が高まったのである。
これは提案なのだが、いきなり取締役会の男女比をイコールにすることができないならば、「大事なことを決めるときは男女比含め、ダイバーシティを高めたメンバーで決める」ことができないだろうか。そこで決めたことを尊重して、取締役会で意思決定することもできるはずだ。
個人はどこに向かうのか?
一方、私たち個人に目を向けてみよう。高度成長期、お金があれば幸せになれると多くの人が信じて働いていた。つまり、個人が幸せになるためには、経済成長(グロース)が必須だと考えらえてきたのだ。そして今、経済成長と地球環境を両立するというストーリーは、私たち一人ひとりの幸福感や人生の満足度につながるのだろうか。
経済成長と地球環境の両立は、コロナ禍における経済と医療の両立と同じ構図でもある。このような矛盾を包含したビジョンは、人々を不安定にさせ、目指す方向も大きくブレやすい。例えばエシカル消費を増やすことが地球環境に大事と推進していったとして、ある時、このままじゃ地球環境を維持できないとなると、エシカル消費も悪、これからはリユースだ、などと善悪の基準すら変わりかねない。
このような「正解のない時代」は、「不安な時代」と感じる人もいるし、一方でとても「自由な時代」と感じる人もいる。正解を探すと不安だが、正解がないなら自分で決めればいいと考えることができれば、これほど良いことはない。
京都に電通が運営するコワーキングスペースがあり、私の会社もメンバーだったのだが、その運営のキーパーソンだった電通の方から1通のメールが。電通をやめてフリーになると。え?いきなり!とびっくりしたわけだが、次の記事の通り、電通は社員のフリーランス化を促進し始めている。
私たち個人の持つべき「問い」は、「どんな社会になるのだろうか」と受け身になるのではなく、「こんな社会にできないだろうか」になることではないか。誰もが未来に主体的に関わるものにしていけるはずだ。
場所、時間、文化の制約はもうない
今、技術的にも制度的にも、「どこで働くか、どこで暮らすか」、「いつ働くか、どう時間を使うか」、「どんな文化のコミュニティを選ぶか、どんなルールの組織を選ぶか」、個人が自由に選ぶことができるはずだ。だが、この制約を超えてイキイキと羽ばたけている人が、どのくらいいるだろうか。実は、この制約を生み出しているのは、私たち一人ひとりの中にある「常識」や「思い込み」なのではないか。
イノベーションプロジェクトに関わることが多いのだが、「短期的成果を気にせず社会課題に取り組め」と言われたチームメンバーから、「トップはどんな成果を求めているのだろうか」「落とし所はないか」といった不安の声を聞くことが多い。どれだけ多くの人がイノベーションの名の下で、ダブルバインドを受けてきたのだろうか。
コロナ禍でオンラインでやるべき仕事、対面でやることに価値ある仕事の峻別ができてきているはずだ。それでもアフターコロナはオフィスに戻る、戻らないという単純なゼロイチの議論になりやすい。ヤフーのように、原則オンライン勤務OKと決めてしまえば、社員は移住を果たし、フリーランスを会社の組織の一部として役立てることも容易になる。
時間、場所、組織から解き放たれた時、私たちは「自由」を感じることができるだろうか。もし感じられないとしたら、それは「日本社会が安全基地として機能していない」からではないか。日本は治安面でも、健康保険制度でも、雇用制度においても安全な国と見られてきた。しかし、もし会社から自由が与えられても不安を覚えるのであれば、「会社に属することが最大の安全基地」になってしまっているのかもしれない。つまり、長いものに巻かれているのが幸せだ、という思考に陥っていることになる。
つながりの質によって生まれるスローイノベーション
短期的成果を求めるファストイノベーション、それに対して社会課題解決など一筋縄では行かない変革を起こすために、ステークホルダーとの信頼関係を構築し、プロセスを大切にするのがスローイノベーションだ。それを手段と目的を逆にして表現すると、スローイノベーションは社会的に豊かなつながりを生み、ファストイノベーションは競争と対立を生む。それゆえ、ファストイノベーションのプロジェクトは終了するとパッと解散してしまう。スローイノベーションのプロジェクトは、終わった後も関係が続き、第2、第3の続編的なプロジェクトが生まれやすい。信頼関係があるから、他のことも相談したい相手になっているのだ。
この本質的な違いは、ファストイノベーションに使う時間は「コスト」なので、成果が出なければすべて無駄になる。一方でスローイノベーションのために使う時間は「アセット」となる。個人としての成長、ステークホルダー間の信頼関係など。スローイノベーションに関わること自体が、より良い社会の一員になっているという感情を生み出す。
しなやかな参加型社会へ
スローイノベーションのプロジェクトに取り組む人間が自分で言うのもなんだが、「スローイノベーションのプロジェクトは、その存在そのものに価値がある」と思っている。そのプロジェクトに参加している人たちは、多様なステークホルダーの中で自分の存在意義を感じることができ、より良い社会をみんなでつくる活動に生きることができる。
つまり、「スローイノベーションは参加することに意義がある」ということだ。スローイノベーションそのものがアセットなので、スローイノベーションのプロジェクトが多数起きていること自体が、良い社会なのだ。スローイノベーションが広がれば、多くの人が「社会に対する信頼」を高めることができる。会社に依存することなく、「社会の中に自分の存在する場所」を得ることができる。
答えのない未来。だからこそ自由がある。短期的成果が出にくい社会。だからこそ、スローなプロセスに自分の居場所を見つけることができる社会。誰もがより良い社会をつくる貢献者として生きることができる、それこそが、「しなやかな参加型社会」ではないだろうか。