契約結婚と注文住宅の関係性について。
先日、こんな記事がYahooニュースに出ていた。
そして案の定、コメント欄は荒れていた。
性的な独占はせず、財産も別で管理。
お互い自立して同居する2人の「契約結婚」というスタイルを紹介した記事に書き込まれたコメントは約5,000件。
その多くは批判的な内容で、一言にすれば
「そんなの結婚じゃない」
というもの。例えばこんなコメント。
このコメントからは「こんなわがままが、まかり通ってたまるか」という意気込みが感じられる。おそらくコメント主は苦労をして、我慢をして、婚姻関係を守ってきた方なのだろう。
そしてこのコメントは、多くのヤフコメの民に支持されている。
同じように苦労をして、我慢をして、婚姻関係を守ってきた人が、この国には多い。
そんな人たちは、記事にあるような2人の生き方を簡単に認めることができない。なぜなら自己否定につながりかねないから。
たくさんの批判コメントが、僕にはこんな風に聞こえた。
自分だって本当は自由にしたかった。
でも我慢した。
我慢するしかなかった。
苦しかった。
何度も諦めそうになった。
でもそれが結婚だと信じて耐えてきた。
そんな私たちが守ってきた「結婚」を壊さないでほしい。
私たちの時間を、否定しないでほしい。
もちろん記事に出た2人に、他人の人生を否定するつもりなんて毛頭ない。
ただ自分たちで考え抜いて、導き出した結論が記事になっただけだ。
しかしなぜこんなにも、規格にハマらない生き方をする人たちは批判されてしまうのか。
今日はそんな話。
読了まで3分。しばしお付き合いください。
■規格住宅と注文住宅
話は突然変わるが(結果的には戻ってくるが)、僕は今家を建てている。
最初は規格住宅にするつもりだったが、細部をこだわり出したら結果的に注文住宅になってしまった。
●規格住宅
あらかじめ用意された基本パッケージがあって、設備や色などの一部が選べる住宅のこと。基本があるから費用が抑えられ、完成までのスピードも早い。
●注文住宅
間取りから壁紙までオーダーメイドでつくる住宅。費用は規格住宅よりも上がり、完成までの手間やスピードもかかる。
僕は注文住宅にして、最初は細部まで選べることが嬉しかった。しかし途中からしんどくなってきた。
「そんなところまで、いちいち自分で決めないといけないの?」
と、考えることを放棄したくもなってくる。
決められた規格があった方が楽だった、と最近は思ってきた。
そんな折に、冒頭の結婚に関する記事を読んだ。
僕には結婚が規格住宅に思えてきた。
■結婚制度という規格住宅
人間関係と建築は似ている。
どちらも「築く」という字を使う。
築く、とは1つ1つ丁寧に積み上げて、大規模なものを完成させること。そうしないと強固なものは出来上がらない。
しかし、人間関係を簡単に「築く」方法がある。
それが結婚制度を使うことだ。
結婚制度は規格住宅のようなもので、予め決められた基本パッケージがある。図にするとこんな感じ。
自由度が低い反面、時間をかけて考える必要もない。簡単に手続きができる上、提供主(国/住宅メーカー)が責任を持って規格化したものだから、安心感や社会的な保障もある。
一方、契約結婚は自由設計の注文住宅だ。
自由度が高い反面、時間も手間もかかる。また、規格化されないくらい前例が少なく、社会的な信用も得難い(住宅の場合、ローンの審査が厳しい)。
例えば冒頭の記事はこんな風にカスタマイズした。
このように、項目ごとにカスタマイズできるのが契約結婚のメリットであると同時に、デメリットでもある。
■結婚という規格化メリット
結婚に限らず、「規格化」は普及にとって不可欠な工程だ。
規格化されれば、人は安心する。
自分で考え抜く必要がなくなって、選びやすくなる。
「人から考える行程を奪えば、ビジネスになる」
とはよく言ったもので、結婚制度は関係性の規格化によって大いに発展した。
多くの人が、規格化のメリットを享受しながら、結婚制度は普及してきた。
しかし今は、規格化のデメリットが目立つ。
話を本題に戻そう。
「結婚とは不自由で、苦労が多く、我慢するのが当然だ。そうでないものを結婚とは認めない」
とする冒頭の記事に対する批判コメントは、規格化のデメリットそのものだ。例えばこんな賛同の声があった。
結婚に自由や我慢はつきもの。
そんな自由度の低さに耐えるからこそ、手軽に社会的な信用を得ることができる。それが結婚だ。
しかし今、契約結婚などと主張する輩は、自由度が高い上に社会的な信用まで享受しようとする。そんな契約結婚なんてけしからん。
それが批判コメントの本質だろう。
突き詰めれば、事実婚や内縁関係をどこまで法的に保護するか、という話にまで発展する。
■関係性はオーダーメイドで築いていく
僕は思う。
人と人との関係は、すべてオーダーメイドだ。
同じ人なんていないのと同じように、同じ関係性なんて存在しない。
だから関係性を規格化しようとすれば、必ず無理が生じる。
そして規格化されたものほど、自分の感覚とのズレに気づきやすい。
それでも私たちが関係性の名前を採用するのは、規格化のメリットがあるからだ。
難しいことなんて考えずに、
「それが夫婦だから」
「それが家族だから」
「それが友達だから」
と、社会的に規格化された基本パッケージを振りかざすことができるからだ。
だから私たちは規格化された関係性を選ぶ時、そのメリットを自認する必要がある。
そうしないと、自分の苦しさや我慢だけを意識してしまう。
きちんとデメリットも享受しながら、自由に選択している他人を羨んでしまう。
攻撃してしまう。
ヤフコメの住人になってしまう。
気をつけたいものだ。