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都会・田舎という概念は、役に立たない

今回の日経COMEMOのお題は#ずっと都会で働きますか?とのこと。

ならば胸に手を当てて考えてみようではないか、とした途端、多くの違和感が押し寄せてきました。

私が仕事上関係がある会社は、大半東京都内にオフィスがあります。が、対面が必須ではないミーティングなどは神奈川県の自宅からオンラインで参加することもよくあります。

「#ずっと都会で働きますか」という言葉により、第一義的に問われているのは「仕事のリモート比率が高じ、大半の業務が自宅でできるようになったとき、オフィス(私の場合東京)の近くに住む必然があるか?」というコトなのではないかと考えます。

とすると、この設問は、より精密には「出社の必要性がほぼなくなった時、オフィスの近くに住み続けますか」と再記述され得るし、その方が的確に答えられそうです。

そして、この問いへの答えは簡単です。現在住んでいるところが、(オフィスから距離に関係なく)好きだったり、そこに住むことに合理的な理由があったりするならば、住み続ければ良いのです。そうでなければ、より好みにあった合理的な場所に引っ越す一手です。

どこに住むか、は、その人の幸福に大きく関連することであり、居住地はその人のアイデンティティの中で小さくない割合を占めます。引っ越しは小さからぬ意思決定・コストがかかり、現状維持バイアス(変化と現状維持という2つの選択肢があった時、現状維持を選びたくなってしまうという人の性質)もあいまって、なかなか重い腰が上がらないかもしれませんが、ここは自分の理想の場所に移る方が良いのではないか、と思います。

ところで、この設問の一筋縄ではいかないところ、すなわち別の違和感は「都会」という2文字にあります。

問いを「出社の必要性がほぼなくなった時、都会に住み続けますか」という別の形に再記述した場合、問われる内容は「現在の居住地がもつ「都会」という属性に好みや合理性がありますか」ということになります。

「都会」には多くの人や施設が集まり、経済活動が活発に行われます。そうでない場所を、私たちは「田舎」と呼び、都会と田舎を二項対立的に捉えたりします。

しかし、都会と田舎の境界は曖昧です。

多分に感覚的な話になってしまいますが、いわゆる政令指定都市は、都会というのに十分な規模やコンテンツを持っています。しかし東京23区と比べるとそのボリュームは少なく、その関係(23区と政令指定都市)の中では政令指定都市の方が田舎的な位置付けになります。

一方で(政令指定都市以外の)県庁所在地と比べた場合、政令指定都市は都会の位置付けになります。しかし県庁所在地は大抵の場合は、都会と呼ぶのに十分な機能や規模を持っています。

さらに、それぞれの県の2番手・3番手の都市と県庁所在地を比べた場合、という具合に比較検討を進めていくと、大規模な都市とその対局にある(例えば)集落の間には、ビシッとどこかに線引きがあるのではなく、一本のグラデーションがあるだけなのではないか、という気がしてきます。

都会と呼ばれる概念も、田舎と呼ばれる概念も、因数分解していくと機能・属性・個性など多くの要素にブレイクダウンできます。人が住む場所を決める時に、好き嫌いや合理・非合理の根拠にするのは、都会・田舎といったざっくりしたレベルの概念ではなく、ブレイクダウンした因子一つ一つであり、その判断はこれらについて総合的に検討した結果であるべきです。

まとめると、私は居住地の選定に当たっては、候補地一つひとつについて、自分が「好き」を決める上で外せない要素が含まれているか、とか、「嫌い」を決める上で外せない要素が含まれていないか、といった検証によってなされるべきであり、田舎・都会といった中間概念はその邪魔になるだけだと考えます。

最後に、この記事をご覧いただけますでしょうか?

私自身はリモートワーク環境を享受しているので、それに課税されたら嫌です。またリバタリアン的な価値観を持っているので、このような社会保障の設計の仕方は好きではありません。

しかし、それでもこの考え方はフェアだし、必要だと思います。

つまり、現場があったり、対面コミュニケーションが必要だったりで、リモートワークが成立しない業種に従事している人も多くいることを考えたときに、居住地の決定という、人の幸せに大きく関係することの自由度が職種によって異なる、というのは公平性を欠いているのではないか。

そして、今回の設問(を私が再記述した問い)を考えるベースには、そういった社会全体の公平性や、その設計、という視点が欠かせないのではないか、と考えます。

読者の皆さんは、どのように感じられますか?




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