ミニスカートの歴史~「怒り」より「ご機嫌」に
ミニスカートの話をする。
ミニスカートは、イギリスのストリートファッションデザイナーのマリー・クワントが1959年に生み出したものとされている。彼女はミニスカートだけではなく、髪型やメイクも革新的なものを提案。短いヘアスタイルにミニスカ―トというファッションスタイルを提案した。
が、実際にはそれ以前からあった。1952年に始まった米国のテレビシリーズでも衣装としてミニスカートが登場していたりする。
しかし、マリー・クワントのミニスカートがブームになり、1964年にクレージュがミニスカートを発表して世界的な流行となった。
ミニスカートを語る上で欠かせないのが、象徴としてのモデル「ツィッギー」である。
ビートルズが来日した翌年の1967年に彼女は来日した。一説によると、ビートルズのギャラより高かったらしい。日本での火付け役は間違いなくツイッギーと彼女を表紙で活用した雑誌「女性自身」の編集長と、自社のパンティ・ストッキングを売るためにミニスカートブームを後押しした東レの宣伝部長によるものである。その後「平凡パンチ」ものっかる。
バレンタインにしろ、クリスマスにしろ、大体企業のマーケティングをするおっさんたちによって流行は作られていたのですよ。
ちなみに、日本人としてミニスカート姿を最初にメディアに出したのは野際陽子さんだといわれる。
圧倒的な可愛さを誇った20代の加賀まりこが、当時爺さんの川端康成に口説かれ、朝食だかランチだかを共にして、川端から「もう少しスカートをめくってごらん」というキモい事を言われたのもこのころだ。
https://twitter.com/wildriverpeace/status/1308047258101841920?s=12
ミニスカートの流行は日本国内でもブームとなり、今70歳以上のお婆ちゃんたちは結構みんな履いていたと思う。
1970年には森英恵デザインによるJALのスチュワーデス(当時はこの呼称)の制服にミニスカートが導入された。
その頃デビューしたアイドルはことごとくミニスカートである。ところが、1970年代大阪万博のコンパニオンの制服を最後に衰退していったとされる。
確かに1970年代後半からは、積み木崩しやスケバンブームから女子中高校生の間には長いスカートが流行り出した。しかし、バブル景気の隆盛とともに、ピンキー&ダイアンやノーベスパジオというサンエーインターナショナルのブランドが流行し、ボディコンとしてディスコのお立ち台の制服となり、それらはジュリアナ東京の1990年代半ばまで続く。
その後は、女子高生の間で、ルーズソックスとともに制服のミニスカート化が進んだりと、衰退と流行を繰り返している。
実しやかにいわれているのが、「景気がよくなるとミニスカートが流行る」というものだ。確かに、60年代の高度経済成長期、バブル期などはそうだったかもしれないが、JKのスカートが短くなった頃は「失われた30年」と氷河期時代だったかもしれないので、あまり関係はないだろう。
むしろ、マリー・クワントがミニスカートブームを作った頃の世界は、第二次大戦は終わったとはいえ、ベトナムをはじめ世界各地で戦争がまだ継続中であり、世界の覇権を握ったはずのアメリカではケネディ兄弟やキング牧師の暗殺など暗い時代でもあった。
私が、マリー・クワントを評価したいのは、政治的な女性解放云々といった宣言を一言も発せず、眉間に皺寄せて怒ったりも闘争もせず、ただ、機嫌よく自分らしさを貫いたファッションを作りたいというだけのアクションだったからだ。
みんなが怒ってばかりで、敵を作り、その敵を攻撃することでしか自分たちのアイデンティティを感じられなかった戦前の全体主義時代に対して、彼女は「なんで怒ってんの?そんなのいいから、かわいい服着て街へ繰り出そうよ。ご機嫌になるよ」といういかにも陽キャのパリピ的な提案をしたのだ。デモではなく、かわいい服を着て、みんなが楽しそうに街を闊歩することが、結果として社会の環境というか空気そのものを変えることになるのだ。
彼女自身がそう考えていたかどうかは知らないが、そういう考え方こそが今求められているのではないだろうか。
そして、このミニスカートに対して滅茶苦茶怒っていたのがココ・シャネルである。もはや70歳を過ぎていて彼女は「膝なんてただの関節よ。見せるものではない。醜いわ」とまでいって非難した。
そんなシャネルのスーツをパリまで行って購入し、自分でハサミで切ってミニスカートに仕立てて笑顔で着ていたのは森英恵だった。
ミニスカ―トかどうかは別にして、少なくとも些細な事で怒りだす人が少なくなれば自然と景気もよくなるのではないの?膝より怒りの方が醜い。