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いびつさを生かすアート思考的マネジメント〜 組織の「発酵」と「ポイエーシス」のための「ブリコラージュ」

お疲れさまです。uni'que若宮です。

環境学者の真鍋氏がノーベル賞を受賞されました。1950年代からCO2による気候変動について研究してきたという偉業。受賞そのものもそうですが、ついでに真鍋氏が米国籍だったことも話題となっていました。

真鍋氏がもともと日本で活動していたら、偉業は生まれなかったかもしれない。周囲の空気を読むことを求められ、異端児は煙たがられる。「誰もなし遂げていないこと」に挑む最前線の研究者にとって、居心地が良いとはいえない。

真鍋氏は「互いに邪魔しないように協調する」日本に対し、米国では「上司が寛大で、研究で何でもやりたいことができた」と言います。もし日本の組織のあり方がこうした偉業の芽を積んでしまっているのだとしたら、やはりこれは大きな問題です。

「既存の価値観とはちがう個のいびつさ」を殺さず、生かすためには組織はどう変わっていったらよいのでしょうか?。今日はアート思考観点からそんな話を書いてみます。


いびつさを生かす組織

企業から「アート思考」の研修を頼まれることも増えてきたのですが、企業でアート思考の話をすると、必ずといっていいほど受ける質問があります。

まずプレーヤーである若手社員からの

アート思考の重要性はわかったが、組織ではきっと上に理解されず発揮できる気がしない。どうしたらよいか?

という質問。そしてマネージャー陣からの

個のいびつさを生かすのはたしかに重要だと思うが、それでは組織は成り立たない。どうしたらよいか?

「アート思考」を取り入れよう、と言っても、組織のあり方が旧来のままではそれは難しいのです。否、旧来の「管理型」ではマネジメントできない、と言っても過言ではないでしょう。マネジメント自体も変わる必要があるのです。

「アート思考」のキーワードは「個のいびつさ」や「ちがい」、「偶然性」や「異質性」。これはすべからく「管理型マネジメント」の敵とも言えるものです。

「工場のパラダイム」にあった20世紀型の組織は、組織の論理や枠組みに個が合わせるもので、いわば「機械的組織」でした。マニュアル化や標準化によりいびつさやちがいを排除し、「計画」どおりの実行を重視し偶然性や異質性を忌避する組織です。

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機械的組織のマネジメントにおいては、個のいびつさは組織のグリッドに合わせて切り落とされ、整形されます。整然としており安定性や効率性はたかいのですが、一方で個は部品のように交換可能となり使い捨てられがちであったり、なによりも新しい価値が生まれづらいというデメリットもあります。

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グリッド上の定形に押し込められる軋轢の中で、真鍋氏のような才能は外に出てしまうか、あるいは型にはまりいびつさを失ってしまいます。


「ブリコラージュ」と「発酵」


10/13に発酵デザイナー小倉ヒラクさん、LetterMe西村静香さんとトークするこんなイベントがあるので

今日ヒラクさんの著書を読み直していたのですが、

その中でヒラクさんは、文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」という概念を引用しています。

主著のひとつ 『野生の思考』にて、 「神話は、一種の知的なブリコラージュである」 と定義する。いわく、
「神話的思考の本性は、雑多な要素からなり、かつたくさんあるといってもやはり限度のある材料を用いて自分の考えを表現することである」
ありあわせの材料を用いてブリコラージュを行う「器用人」は、明快なコンセプトに基づいて事前に用意された材料で無駄なくものをつくる 「エンジニア」と対置される。
「器用人」の仕事ぶりについて、レヴィ= ストロースはこんな風に述べている。
「いままでに集めてもっている道具と材料の全体をふりかえってみて、何があるかをすべて調べ上げ、もしくは調べなおさなければいけない。そのつぎには、 とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題にたいしてこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる」

ここでは「ブリコラージュ」的な仕事は、「エンジニア」のしごとと対置されているわけですが、これは「身体的」と「機械的」との対比ともパラレルなものです。


「発酵」する組織へ


ヒラクさんは「ブリコラージュ」の引用を「発酵」のアナロジーとして導入しています。

これはまるっきり発酵のことを指している。
「神話」を「発酵文化」に、「器用人」を「醸造家」に入れ替えるとブリコラージュの概念はまさに発酵を象徴するものであると言える。


色々な「材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題にたいしてこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる」というあり方は「醸造」的であり、そこから「神話」が生まれるようにさまざまな「発酵文化」が生み出される、と。

さらにアナロジーを重ねるなら、「組織」も本来そういうもののはずです。素材であるメンバー間の出しうる能力の相互作用と時間の仕事によってさまざまに異なるな「文化」が生み出されるはず。しかし多くの組織はそれぞれの文化を醸すことなくどこも同じような形態やルールをとっています。

「機械的組織」は「発酵」しません。「発酵」は完全にコントロールしようとしてもできませんし、素材を生かし丁寧な手仕事の後に発酵が起こるのを待つしかありません。そこには双方向的な「対話」があるのです。

そして発酵がうまくいかずに時間が経つと素材は腐ってしまいます。日本では組織の中で「腐っている」人を見かけることも多いのですが、これからのマネジメントはブリコラージュによって「発酵する組織」を目指すべきかもしれません。『発酵文化人類学』にはそうした組織論的なヒントもたくさん詰まっているのでまだ読んだことがないマネージャーは一読をおすすめします。

(あとコミュラボ主催でアート思考観点からコミュニティについて考えるゼミをしてます。「焚き火」や「発酵」からも考えたりするのでアート思考やコミュニティに興味ある方はどうぞ↓)



ブリコラージュと「日本の仕事」

もうひとつレヴィ=ストロースについて。こちらの『100分de名著』プロデューサー秋満吉彦さんと能楽師・安田登さんの対談でも、レヴィ=ストロースのことが書いてあります。

彼がその観察で理解したのは、西洋人の「働く」と日本人の「働く」は違う、ということでした。西洋人の労働というのは、自分の頭にあるプランを完璧に対象とか自然にあてはめる。たとえばコンクリートで何かをつくるとしたら、完全に材料をペースト状にして、自分が想像した設計図にあてはめて型をつくる。
ところが日本人は違います。たとえば石垣。自然の石をどう組み合わせたら石垣になるかを考える。陶器をつくる人は「この土がなりたがっている形を引き出す」と言ったり、仏師も「私は何もしていない。この木の中に眠っている仏様を掘り出しただけだ」などと言ったりするわけです。
レヴィ=ストロースはそこに気がついた。つまり、日本の職人は主体的に何かを支配しようとするのではなくて、素材そのものが持っている素晴らしさ、潜在力を引き出そうとする。これを彼は「野生の思考」と呼んでいますが、それが日本人の働き方であって、いまの西洋人が失っていることだ、と言うのです。そして「日本人にこそ学べ」と。


このコンクリートと石垣のたとえは、まさに先程の組織の対比に符合します。この文を読んですこし悔しくなるのは、「野生の思考」がまさに日本人の「働く」の中で見いだされていることです。「日本人にこそ学べ」と。

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実際レヴィ=ストロースは親日家として知られましたが、来日したのは1970年代以降、真鍋氏が渡米したあとのことです。レヴィ=ストロースは「職人の働き方」を観察したわけで、大学を見に行ったわけではなかったでしょうから、彼がいう「日本」は一面的で理想化されたものであったことは否めません。しかし、日本にはたしかにこうしたブリコラージュ的な身体性があったのです。


「ポイエーシス」する組織へ


さらに、秋満さんはこのあり方を「ポイエーシス」という言葉でも説明しています。

秋満:ギリシア語に「ポイエーシス」という言葉があって、これは潜在的なものを引き出すということです。一方で「プラクシス」というのがあって、自分のプランを相手にあてはめて支配する方法です。もともとギリシアには両方の働き方があった。ところが西洋世界が近代化し労働が効率的になっていく過程で、ポイエーシス的な部分が失われて全部プラクシスになってしまった。レヴィ=ストロースがすごいのは、日本人の働き方を見て、西洋人ももう一度ポイエーシスを取り戻そうよ、考えたところです。

「ポイエーシス」と「プラークシス」はそれぞれ「制作」/「実践」などと訳される言葉で、その概念規定や概念史については一筋縄ではいかず、これだけでかなり厚い研究書ができそうなのでざっくりといいますが、「ポイエーシス」の「制作」とはもっぱら芸術的活動を指し、「poetic」つまり「詩的」の語源でもある単語で、アート思考的なあり方に通じています。

それは論理的一貫性や計画至上主義ではなく、今あるものとの対話からそれぞれの特徴を引き出し、その寄せ集めから都度価値を生み出す、動的なマネジメントのあり方です。そうしたあり方によって、既存の枠組みや同質性を超えた創造性を発揮し、「ポイエーシス」できる組織になるのです。

変化がはやく正解がないと言われるVUCAの時代、個のいびつさや創造性を殺さず・生かし、組織全体を創造的にしていくために、これからのマネージャーに必要なスキルはまさに「ブリコラージュ」的なマネジメントではないでしょうか。そしてそれは本来、発酵やポイエーシスができていた日本人が得意なものかもしれないのです。西洋型の組織論のコピーを続けるのではなく新しい(むしろ昔ながらの?)組織やマネジメントが日本から生まれたらきっともっと面白くなるはず!

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