肩書きは幾つ持っても、ぜんざいに塩を入れたような味わいにはならない。 (#肩書を複数持つ必要ありますか のテーマに代えて - 前編)
複雑な気持ちである。
日経のnote、comemoの次回の選者に任命された。
それはいい。ヘビー日経読者なので喜んで拝命する。
が、僕の回のテーマがこれだ。
「#肩書を複数持つ必要ありますか」
まず、肩書きが嫌いだ。
もう少し丁寧に言うと、肩書きそのものに罪はない。
「肩書きが好きな人」が嫌いだ。
人に貼られたラベル。それによって人を見る人が嫌い。
そうだそうだ、私もそう思う!と言われるだろう。
ところがどっこい、世の中はそうはできてない。
人をポジションで見る。学歴で見る。所属する組織で見る。
人間の脳みそは単純でわかりやすいことを好む習性があるから、
インターネットの隆盛と共に、どんどん自己PR時代に突入した。
肩書きたくさん持ってる人って嫌い。
プロフィールにたくさん肩書きを見せつける人を信用しない。
そう言う人とは仕事しないことにしている。
僕の仕事は「企画」である。
企画は、価値を生むということである。
いいこと思いついたり、いいこと見つけたりしなければいけない。
つまり、有形無形問わず、目利きでなくてはならない。誰かが既に良いと言っているものや、見かけが良くて中身がないモノを重宝したり掴んでいるようでは、仕事にならない。
見てくれで人を判断する人は、これからの人やコトを「抜擢」できない。
誰も目がつけていない原石を、磨いて宝石にはできない。
そんな人生は僕は嫌だなあ。
僕にとってはそれでは生まれてきた意味がない。
自己PRばかりで、実力ある人が少ない。
それは現代だけじゃないのだろう。
人類始まって以来、ずっとそうかもしれない。
三国志の中で、人里離れたところで人に尽くす「人物」を見つけた諸葛亮孔明も、こう言っている。
「ふむう…
『人ある所に人なく 人なき所に人あり』か…」
生きている限り、この人類の「肩書き」に対する習性とはとはうまく付き合っていかないといかないようである。
最初の質問に戻る。「肩書きを複数持つ必要ありますか?」
聞かれてしまったので、こう答えよう。
「ありません。
複数どころか1個も要りません。」
しかし、それではこのテーマが終わってしまう。
「肩書きはいらないのはよくわかりました。
じゃあ、なになら複数持つ必要ありますか?」
そう日経新聞の方が続けて質問してきたとしよう。
(めんどくさい選者を指名してしまったな、やれやれ、と言う感じで)
そしたら皆さんどうします?
僕は多分こう答えると思う。
「側面は色々あった方が面白いかもしれない。」
人間としての側面。
側面なら、持った方がいい、と言うか、言われなくても色々みんな持ってる。
職業はもちろん、
性別、年齢層、出身国、出身地、血液型、性格、趣味、特技、
長男とか、親であるとか、利き手とか。
習性とか、好きな食べ物とか、住んでるところとか。
僕の頭の中で、日経の方は、追い討ちをかけて聞いてくる。
完全に取材モードである。
「なぜですか?」
それに答えるには、このエピソードがピッタリかもしれない。
15年くらい前の打ち合わせでの一コマ。
デザイナーの先輩G氏(男性)と、後輩のコピーライターM(女性)と打ち合わせをしていた。
G「Mはさ、何が好きなの?」
M「お酒です。」
G「どんなお酒?」
M「焼酎が好きです。」
G「どんなふうに飲むのが好きなの?」
M「焼酎ロックを、家で一人で風呂上りに飲むのがたまんないんですよ。」
G「そんな20代女子、なかなかいねえよ!」
「焼酎を」+「ロックで」+「風呂上りに飲む」女。
こう言う組み合わせでいくと、世の中にほとんどその子しかいなくなる。
いるかもしれないが、かなりレアなユニークな存在になる。
人って、誰もがみな、面白いなあと思う。
「みんな違って、みんな面白い」んである。
70億人こうやってみんな違う、
こんなに多様に人間を生めるなんて神様って凄いなとまで思ってしまう。
側面が組み合わさることで、みんな唯一無二なのである。
書いてるうちにこんな話も思い出した。側面についてのエピソード2つ目。
20年前、新入社員時代、「プレゼン」研修があった。
外部講師だったし、新入社員同士もまだみんなお互い知らなかったので、
「1分自己紹介」からその研修は始まった。
その中の一人の同期の自己紹介は僕の人生で見た自己紹介でベストだった。
勝手に書いてしまうが、コピーライターの中村直史くんの自己紹介である。
細部は違うかもしれないが、こう言う話だったと記憶している。
「なかむらただしと言います。
ただしと言う名前ですが、
ただしいことばかりしている人間ではありません。
あったかいね、と言われることもあれば、
冷たいね、と言われることもあります。
そう、私は矛盾した人間です。
しかし、かのドイツの文豪ヘルマンヘッセは言いました。
『矛盾の中に、芸術は生まれる』と。
私は、この自分の矛盾を生かして、
これから芸術的なものを作っていきたいと思います。」
彼がそう言い終わった時、ちょうど1分を告げるベルが鳴った。
すげープレゼン、と思った。
と同時に、この人のことは好きだなあと思った。
自己紹介でいきなり、矛盾した人間だなんて言う人なんて会ったことない。
そう。彼だけじゃない。
みんな矛盾した人間である。
反対の側面を持っている。
そう言う人は、魅力がある。
例えば、最近の日経に載ってたこの人なんかどうだろう?
2020.12.12 日経一面、春秋のコーナーより切り抜き。
泥棒なのに説教する。
逆の側面の矛盾した存在。
みなさんの頭の中にも思い当たる人物、色々いるはずである。
反対の側面が組み合わせが、違った味わいを作るのは、
ぜんざいに塩を入れるとより甘くなる時だけじゃなく、
この世の真理なのだろう。
これは多様性なんて言葉じゃくくれない、
この世界が持つ豊さだと思う。
肩書きじゃなくて、側面を。
だって、人間的だし、面白いし、素敵だし。
世の中を見る目が変わってくる。
世の中捨てたもんじゃないなと思ってくる。
そんなことを書いているうちに、長くなってしまった。
事務所の大掃除をしたら、続きを書きたいと思う。A型なのに、大雑把なもんで。矛盾した存在なんです。
後半はこちら。
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