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「恋愛最弱者」は増えたのではない。可視化されただけだ

恋愛市場にもマーケティングで注目されるOMO(オンライン・マージズ・ウィズ・オフライン)の概念が浸透しつつあるという以下の記事。

なかなか興味深い。

しかし、「コロナで生活様式が変わる」とか「ニューノーマルの時代へ」とか言って儲けたい一部の事業者的にはそういう方向に持っていきたいのかもしれませんが、男女の出会いや恋愛がオンラインにとってかわることは100%あり得ないでしょう。

コロナがあろうとなんだろうとそんなものは変わらない。コロナ後は、元に戻るだけです。

その理由については、また別途データを交えて記事化しますが、ひとつだけ言うと、こうしたマッチングアプリのコンセプトが、基本的には「出会わせるまで」という設計がされているため、その先の行動は、自己責任という仕組みになっているからです(それは致し方ないわけですが…)。

恋愛弱者は、たとえ相手に出会ったところでそこから先の行動がわからず、途方に暮れるのです。その挙句、恋愛工学だのなんだとのというわけのわからない本を宗教のように頼り、意味不明な行動を取っては次々と玉砕していきます。

かつてのお見合いおばちゃんは、そんなことお構いなしでした。本人の自由行動なんかさせていたら何も進まないとわかっているからです。どんどん婚姻の日取りや結納という事実を作り、気付いたら祝言をあげていたという形で進めていました。一応、本人の意向は聞いた体ではありながら、どんどん問答無用で推し進める強引さがありました。だからこそ、皆婚が実現したわけです。

そのやり方が現在において妥当とも適合するとも思いませんし、未来もそれが復権するとは思いません。

ただひとつ忘れてはいけないのは、所詮恋愛ができる男女は3割しか存在せず、その3割によって婚姻の半分は実現されているのだという事実です。恋愛強者同士が結婚するわけではないからです。

残りの半分は、その大部分が職場での出会いによってまかなわれていました。しかし、その職場結婚も近年激減しています。社内でのセクハラ問題が厳しくなっているからです。

結婚のお膳立てであったお見合いや職場縁や強引なおばちゃんたちがどんどん絶滅する中で、近年可視化されたのが、一度も恋愛経験もなく、セックス経験もない恋愛最弱者層というべき中年童貞の姿です。

本日公開の東洋経済オンライン連載にその詳細について書きました。ぜひお読みください。

おかげさまでたくさんの方に読まれてます!

iPhoneのニュースウィジェットでも僕の記事が一時紹介されました。安倍首相関係のニュースの中に一個だけ中年童貞の話。ありがとうございます。

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8/30現在、ヤフコメも514件、NewsPicksでも565以上のPickがされています。以下お褒めの言葉を何個かご紹介します。

タイトルに軽薄感がある割に、論理的な分析。良記事。起承転結があり、結もキリリと閉まっている。
この記事すごい説得力ある&切なくなるな…
専門家の文章たるべき文章。
ロジカルで腹に落ちる記事。男性だけじゃなくて、女性側の考察も読んでみたい。
若者の○○離れとか草食化みたいな解釈が、統計を観ると誤った解釈だとわかる、面白い解析でした!

ほんとかよ?と思われる方はぜひ記事をお読みください。


記事にも書きましたが、メディアでよく言われる「若者の草食化」なんてものは事実無根の大嘘ということです。いつだって恋愛できない男(恋愛最弱者)は3割弱ほど存在していました。

「俺は若い頃モテたんだ」と大嘘をつくアラカン年代のおじさんは数多いですが、7割はモテてなんかいませんから。

お見合いという社会的システムや「結婚はするのが当たり前だ」という社会規範的なものが消滅して、自由にしていいよと言われた挙句の姿は、生涯未婚者3割の世界なんだと思います。自由にしていいよと言われたら、弱者は何も行動をしなくなるだけなんです。

こうした事実をいつもメディアはなぜ隠すのでしょう?僕にオファーしてくれるNHKやアベプラ、文化放送など一部のメディアは別にすれば、特に新聞を中心として「若者の恋愛離れ・セックス離れ」とか、問題の本質とズレた間違いをいつまでも掲載し続けるのはなぜでしょう?

あまつさえ恣意的な調査なんかを実施して、「ほら、若者はセックスをリスクとしてとらえる傾向がある。明らかに若者はセックス離れをしている」などという者に至っては言語道断。とっとと退場してもらいたいものです。

多分そういう輩は恋愛強者ではないし、恋愛強者との接点もなく、悶々とした青春時代を送っていたんだろうと推測します。今も存在し続ける恋愛強者を舐めるなよ、という話です。

世代によってセックスをする世代としない世代があるのではなく、時代によってセックスが忌避されるようになったのでもなく、本質的に、いつの時代も恋愛やセックスを楽しむ者と楽しめない者との割合は変わりません。

結果として、未婚率があがったり、童貞率が変化したりするのは、本人の問題ではなく、社会環境の変化の問題です。環境によって見える行動が変わっただけであり、本質的な人間の内面は変わりません。

所詮、快楽はドーパミンの分泌なのであって、1970年代インターネットもゲームもなかった時代の若者は、セックスするか、バイクで暴走するか、スポーツするかでドーパミンを出すしかなかっただけ。現代のように、擬似セックスに近い快楽を得られるような代替行動がたくさんある時代には、必然的に選択順位が下がるだけに過ぎないのです。そして、何度もいうように、恋愛を「生きがいのような趣味」のようにとらえる恋愛強者は、そんな代替行動に目も向けず、ひたすら恋愛に没頭します。令和も平成も昭和も大正も明治も、それこそ江戸時代までさかのぼっても同様です。

記事の一番最後にとても大事なことを書きました。お時間のない方は、そこだけでもお読みください。

自由とは決して良いことだけではありません。自由には体力が必要です。そして、自由にすれば安心が手に入るものでもありません。むしろ、自由にすればするほど安心は遠ざかるかもしれないのです。安心は不自由の中にこそ感じられるものだったりもします。どちらが正しいという問題ではありませんが、自由には必ず自己責任が突き付けられることを認識しておくべきでしょう。

その点についてはこちらの記事に書いています。


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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。