自分の死後に自分を受け継ぐAIがいるとしたら、それは誰のためのものか
コンピューターネットワークの空間の中で暮らす時間が、年々増えていっています。コロナ禍の自粛生活でこの傾向は強まり、今後はVRやARなどの仮想空間テクノロジーが進化すれば、さらに加速していくでしょう。
上記の記事に出てくるイギリスのロボット研究者、ピーター・スコット・モーガンさん。ALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断され、自分の身体が動かなくなってしまう前に、先んじて自分の身体機能を機械に移植するという先進的な試みを行っている人です。
ALS患者の研究者が見た希望の未来
ピーターさんは一連の体験とこれからの希望を『Peter 2.0』という書籍にしており、この本は6月に『ネオ・ヒューマン―究極の自由を得る未来』というタイトルで東洋経済新報社から邦訳が出ます。わたしは一足先にプルーフを読ませてもらったのですが、非常に素晴らしい内容でした。ぜひおおくの人に読んでほしいと思う本です。
たとえば義足が進化し、装着した選手が走り幅跳びで健常者を超える記録を出すようなところにまで至っています。もはやそれらは単なる補助道具ではなく、人類のサイボーグ化という新たな進化の形態といえるのかもしれない。そういう方向の未来が『ネオ・ヒューマン』では語られています。
もうひとつの興味深い方向性は、身体性ではなく人間のパーソナリティです。
自分の代わりにAIにしゃべらせる
ALSは進行すれば喉から声を出すのが難しくなり、故スティーブン・ホーキング博士のようにアイトラッキング(視線の動き)で文章を生成し、コンピューターに発声させるようなコミュニケーションが必要になります。しかしこれだと文章の生成にどうしても時間がかかる。そこでピーターさんは自分のパーソナリティの特徴をデータとしてAIに注入し、「自分が喋りそうなこと」を文章としてAIに生成させるということを考えるのです。
この延長線上には、仮に自分が亡くなってしまっても、AIが自分の代わりに会話してくれるという未来が見えてきます。
「そんなこと言ったって、自分は死んでるじゃん」
はい、その通りです。自分は死んでるから、自分の死後にAIが会話しようが何をしようが関係ない。そういう見方はたしかにできます。
「AI自分」は自分のためでなく遺族のためのもの
しかし、です。個人的には、わたしはこういう未来はあってもいいんじゃないかな、と感じています。自分が死んだ後には自己意識は消滅してしまいますが、それでもパーソナリティだけを友人や家族のために遺していくことができるようになれば、それで癒される人たちもいるのではないでしょうか。
AIには感情も自己意識もありません。だから私たちがAIに知性を感じたり、友情を感じたりしても、それらは装っているだけのフェイクです。でもフェイクで何が問題なのでしょうか。生身の人間同士だって、相手が何を考えているのかは本当にはわからない。恋愛のはじまりの時に「この人も自分のことを好いていてくれるんだろうか?」ともやもやと悩んだ経験は誰にでもあるでしょう。
わたしたちが他の人間の考えていることをわからないけれど、でもそこに素晴らしい人間関係を成り立たせているのと同じように、AIが装った知性や友情に感じ入って、それで共感し癒やされるのであれば、それはひとつの救いではないでしょうか。そうわたしは考えているのです。
それを良いこととして私たちは認めるのか、それともそんなものはニセモノであると否定するのか。テクノロジーの進化によって、そういう試金石が遠くない将来にやってくるのではないでしょうか。