エコーチェンバーの世界でアートを叫ぶ(あるいはアート思考について)
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エコーチェンバーの世界でアートを叫ぶ(あるいはアート思考について)

最近アート思考という単語を日経のCOMEMOをはじめ、経済や経営の記事の中でよく目にします。例えば日経のこんな記事。

この中でアート思考とは「芸術家の考え方を応用する」とあって、それを四つの思考過程

1.問題提起
2.想像力
3.実現力
4.対話力

に分けています。この四つに分ける意味合いは理解できます。つまり、これまでの経営が基本的には経済的効率性に則ったものであり、そこに行き詰まりを迎えたときに、これまで見過ごしていた考え方を取り入れて、経営の強度を高めようという観点なんでしょう。それ自体はとても良いことだと思います。

今日はこのアート思考の原点の「アート」について、先に挙げられた四つの思考過程のさらにもう一段メタの部分で、「アートとはそもそも何なのか」という問いを立てたいと思います。そしてその問いへの暫定的な回答は、おそらくは21世紀を生きる上で、必須の知的戦略になると思います。

簡単に今日の結論を書くと、アートとは「情報の重ね書きされた網の目」であるということです。アートをそのようなものとして見た時、アート思考とは、一言で言えば「情報の網の目を可視化する思考」と言うことができるでしょう。そしてアートを通じることにおいて、21世紀の僕らは、ますます思考の多様性が失われて狭隘化していくエコーチェンバーの情報空間で、その狭い空間に押し込められずに、抜け出せる可能性を持ち得ます。これが今日の結論です。

1.アートは難しいのか

ところで、アートって難しいと感じている人は多いのではないでしょうか。さらに今日のこの記事では、アートを「情報の網の目」なんて言ってしまって、こんな言い方だとさらにピンとこない方も多いかもしれません。例えば西洋の絵画を、「情報の網の目」というふうに言えるのか。例えばミレーの「落穂拾い」はどうか。フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」は「情報の網の目」なのか。そんなふうには一見見えないかもしれません。だって、割とシンプルな絵画ですもんね、「落穂拾い」も「真珠の耳飾りの少女」も。

でもまさに、西洋絵画は真正の意味で、キャンバスの上に編み込まれた無数の情報の集積なんです。例えば最近東京カメラ部という写真グループが、YouTube上で「名画から学ぶ 〜写真の見方、撮り方〜」というシリーズを展開しています。

これは写真という芸術が、その構図の撮り方から光の見せ方まで、西洋絵画からほぼ全てその基本的な概念を借りているから成立する企画なんですが、これらを見てもわかるように、西洋絵画はモチーフの見せ方や色の使い方、導線の引き方は構図の見せ方など、キャンバス上で展開される技法の全てが理論化されています。

つまり、一枚の名画には、古今東西の技法という圧倒的な「情報」が凝縮していて、西洋画を見るということは、その知識を使って、一枚の絵をまるで一冊の小説のように読み解くことなんです。

よく「ピカソの絵なんて落書きみたいやん」って言われたりしますが、それは上記のような「キャンバスの上に蓄積された情報の網の目」という観点を持つならば、簡単いは口にできない言葉であることがわかります。ピカソだけに止まらず、全ての絵のキャンバスには、それ以前の作家たちが何百年もかけて生み出してきた全ての「知」が情報としてその下に層をなしている。アートを見るということは、その地層のように編み込まれている「情報の網の目」を可視化することなんです。

こういうふうに書くと、やっぱりアートは難しいってなりますよね。そしてこれは言っておかなくてはいけないんですが、ちょっとは難しいです。と言うよりも、あらゆる良いものは、少しは頑張らなきゃ、その良さがわからないようにできてます。でもね、ほんとはそこまで難しくないんです。構える必要なんてないんですよね。

例えば先ほど例にあげたミレーの「落穂拾い」には、

真ん中に少し明るい、干し草の山のようなものが描かれていますが、それがある理由は、その明るい部分から手前の3人に向けて、広がりを作るために、視点を奥の一点に引っ張るような働きをしています。これ、放射構図っていうんですけど、実は写真でも頻繁に使う構図の一つです。こんなふうに。

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僕はまっっっったく絵は描けない人間ですが、こうやって一つの知識を知ってるだけで、ミレーの「落穂拾い」という古典的名作が、グッと自分に近づいてくる気がしませんか。これを書いたミレーの、その時のインスピレーションの心地よさを体験できた気がしませんか。牧歌的で間延びしそうな空間を、いかにして「絵」として成立させるかの意図は、一つの知識を持つだけで浮かび上がってくる。しかもそれが、僕の場合は、写真の構図を作るときにも役立ってくる。150年以上前の絵と、現代で写真を撮る自分との空間が、一つの情報を媒介にして繋がる瞬間、これがアートの快楽です。

そしてこれが、すごく大切だっていうのが、今日の話の骨子なんですね。前置き長いですね。

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2.情報の網の目を意識するということ

だからですね、実は最初に引用した「アート思考」の記事の中の最初の出だしの部分って、ちょっとだけ「待った!」をかけたいんです。曰く、

芸術家のようにまっさらな状態で事業を見つめ直し、創造性を育む。
引用元: https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC18D110Y1A510C2000000/

と書かれているんですが、芸術家って、まっさらな状態ってありえないんですよね。僕の印象では、芸術家ってむしろ、有用無用を問わず、自らが浴びる情報をミックスして出力するのが、常人ではありえないほどにダイナミックに連動している存在なんです。過去から連綿と続く、網の目のように張り巡らされた知の集積を自らの内側に取り込み、それらを綜合して、まだ世界に問われていない切り口を示せる存在。だから「まっさらな状態」ではあり得ない。むしろ頭の中は、煮えたぎる雑念がガチガチに混ざり合ってて、いつそれが有機的に結合して噴火するのかを待っているような、そんな存在です。

そして「アート思考」という思考形態があるとするならば、最も大事なのはその点なんです。つまり、垣根なく情報を手繰り寄せること。アートが「情報の網の目」であるならば、それを見る思考とは、その情報の網の目を意識して、自らの内側に有用無用を問わず大量に引き込むこと。そして普通は繋がっていないように見える知識群に、「補助線」を引いてやることで、くっつけて新たな価値を提示すること。アートが数百年やってきたこととは、畢竟、それに尽きます

3.エコーチェンバーの世界の中で愛(アート)を叫ぶ

そのような行為がなぜ今の世界に大事なのかというと、ネットとSNSの整備によって、個人が受け取る情報が極端なほどに偏りを受けるようになったからです。そう、エコーチェンバーと呼ばれる状況ですね。自分が見たいもの、聞きたいものだけの狭隘な情報に晒されることで、自己の持っている特定の信念だけが増幅され、固定化されてしまうような現象です。

このエコーチェンバー現象が幾度も世論を歪めていく様を、我々はトランプ政権下のアメリカの分断という形で目撃しましたし、もっと身近なところでも、現在若者たちがワクチンに対して懐疑的な傾向を保ちつつあるというのも、このエコーチェンバーが原因の一つです。我々のような年老いた人間と比べて、若い人たちの判断力が劣っているかというと、全くそんなことはありません。そうではなく、若者の方がネットやSNSに対してネイティブであるという構造的問題のために、彼らの方がエコーチェンバー状態に陥りやすいと推測されます。

少し話が脱線しましたが、そのような状況下において、アートというのは、まさにエコーチェンバーとは逆の存在なんです。先ほどは絵画の例を挙げましたが、その中で写真は絵画からその知識の全てを借りたと言いました。でも絵画もまた、その思想的な知識を、例えば当時の哲学や科学から引き継いでいます。僕の研究している文学もまた、哲学に止まらず、絵画はもちろん、音楽からも影響を受けています。各アート領域は、自らのジャンルの歴史的な知の蓄積、これを時間軸という縦軸の「情報の蓄積」だとするならば、単に過去からの蓄積のみで、その「情報の網の目」を作っているのではありません。常に、同時代に花ひらいた別ジャンルのアートの知識とも連関を保ちますし、また葛飾北斎の浮世絵が19世紀の印象派に影響を与えたように、国境すら超えでてその知識は同時代空間という「横軸」に向かっても、情報を繋げていきます。時間という縦軸にも、そして空間という横軸にも、あらゆる方向へとつながる情報の蓄積が、「芸術家」という一人の情報の結節点で集約し、「アート」として生み出されるのです。彼ら芸術家はつまり、「多様な情報流通の交錯点」を可視化する存在であり、その意味で、世界に対して、そして歴史に対して、最も「開かれた」存在であるんです。

エコーチェンバーな世界とは、本質的に他者のいない世界です。「いやいや、大勢の人間の声が響くのがエコーチェンバーなら、他者はいるじゃないか?」と思われるかもしれませんが、それは違うんです。エコーチェンバー(反響室)という単語が意味じくも表現しているように、その響き渡る怒号のような他者の声と思えたものは、実は自分の声がこだましたものであり、それはエコーでしかない。恣意的に選びとられた、自己の声と同じ情報しか含まない、他者に偽装された自己の声なんです。その閉じられたエコーチェンバーの世界においては、自分しかいない。自分の創意をさらに高め、時には自分の間違いを正してくれるような「異なる価値観」が全く存在しない世界、それがエコーチェンバーという寂しい世界、魂が枯死する場所です。

対照的に、アートの世界とは、本質的に「異質な他が含み込まれる世界」であることは、もはや繰り返す必要のないことでしょう。一枚の絵、一枚の写真、一曲の調べ、ひと綴りの小説の中には、その作り手が作品を創発するに至った、過去、現在、そして驚くべきことに時には未来における「他者との交わり」さえもが含み込まれるんです。そのような「他者の声のあふれる世界」にあっては、自己の価値観は常に揺らぎながら、それでも少しずつ少しずつ情報は分厚くなり、強固になり、豊かになっていきます。

人は時間の中で命を少しずつ失い最後には死んでしまうけれど、アートの中に含み込まれることで時間を超越して、他者と結びつくことができる。時間を超越する他者とのつながりの重ね書き、それこそがアートであり、そしてアートがもたらす世界であるはずです。

つまり、アートとは、引き受けて、引き継ぐことの総体なんです。21世紀は分断の世紀となりつつありますが、そんな世紀にあってこそ、思考の根元にアートを据えられたらと僕個人は思いますし、そのような思考形態を携えた経営者や会社が増えれば、日本の未来は少し明るくなるんじゃないかと思ってるんですよね。

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(冒頭の写真について)2021年7月31日に撮影した、数時間にわたって続いた稲光の写真です。僕が撮っていたのはその最後の時間で、約20分間、40枚分の写真を比較明合成した写真です。同じ方向に20分の間にこれだけの稲妻が落ちるというのは、今まで生きてきても一度も見たことのない光景で、まさに「自然の織りなすアート」だなあと思った次第です。

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別所隆弘

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フォトグラファー。アメリカ文学研究者。滋賀、京都を中心とした”Around The Lake”というテーマでの撮影がライフワーク。インスタはこちら: https://www.instagram.com/takahiro_bessho/