JASRACはなぜ嫌われるのか? 〜「こじらせ系ビジネスモデル」の暴走
お疲れ様です、uni'que若宮です。
先日、JASRACの「潜入捜査」が燃えましたね。
音楽は著作物ですので権利を管理することは適正ですし、なんでもかんでも「無料でいいじゃん!」というわけにはいきません。(若い世代ほどライツ意識が希薄になってきていますが、だからといって音楽がほんとうに「タダ」になると音楽は死んでしまいます)
しかも一応、JASRACはちゃんと法律にしたがって活動をしているわけです。それなのになぜここまで反感を買うのでしょうか?JASRACがしていることはまったき悪で、その活動には価値がないのでしょうか?
JASRACってなんのためにあるの?
JASRACの価値、ということを考えるにあたっては、「そもそもJASRACがどういう経緯でつくられたか」が手がかりになります。
発端は、「プラーゲ旋風」でした。
プラーゲ旋風(プラーゲせんぷう)とは、1931年(昭和6年)に、ドイツ人のウィルヘルム・プラーゲが欧州の著作権管理団体の代理人として、大日本帝国(日本)の放送局や演奏家に対して、高額の著作権使用料を請求した事件である。
まだ日本が音楽著作権の管理などがしっかりしていない時代に、一人のドイツ人が「著作権」という印籠を突如掲げてやってきて「音楽するなら金をくれ!」と各所にふっかけまくったわけです。これによりあらゆるところで音楽の使用が困難となり、なんとあのNHKまでが1年間も外国楽曲を流せなかったといいます。
そこで日本は思いました。「ガイジンにええようにされてたらあかん!わてらもわてらのやり方で音楽を守るんや!」
こうして許可された団体のみが著作権を管理する「著作権ニ関スル仲介業務ニ関スル法律(仲介業務法)」が制定され、「社団法人大日本音楽著作権協会」が誕生します。のちのJASRACです。
この成り立ちからわかるように、JASRACというのはもともと音楽を自由に流せるようにとつくられた組織でした。日本の音楽文化がすくすくと育ちますように。最初は音楽の「育ての親」みたいな存在だったわけです。
JASRACができたおかげで、日本は
・使用者は安心して音楽を使える
・個別の権利者への確認もいらず、手間がかからない
・楽曲使用の対価が権利者に分配される
ようになりました。めでたし、めでたし。
変わってきた親
ハッピーエンドのはずが、気づけばJASRACはいま、音楽の普及どころかそれを阻害する敵のように扱われています。
一体どうしちまったっていうんだ?
親身に育ててくれた「育ての親」が、子供が金持ちになった途端に人格が変わってしまい、なにかにつけて金をせびるようになってしまったような感じすらうけます。(潜入捜査は、子供の家に忍び込んで貯金を家探しするような気持ち悪さがあります)
一つ、大きな理由にはJASRACの懐事情の変化はあるでしょう。決算資料から徴収額の推移を引用します。https://www.jasrac.or.jp/release/19/1905_02.html
もはや説明の必要もなくCDなどの売上は下がっていますから、「録音」の徴収額は徐々に下がってきています。
しかし、全体の徴収はさがっていない。「録音」の下げ幅を吸収しているのが、「演奏」と「複合」の徴収額増です。「複合」とはインターネット配信などであり、「録音」と反比例して伸びています。そして「演奏」とは、コンサートホールやライブハウスなどでの音楽の演奏に関わる徴収で、ここにヤマハ音楽教室を入れようというわけです。要はCDの売上下がってお金きつくなってきたから、取れるところから取ろうか、という感じになっているわけですね。
こじれた親子関係
といっても最初に述べたように、音楽を使用するのは本来的にはタダではありませんし、JASRACもボランティアではなく、一応団体としては食べていかないといけませんから、新しくお金を取れるところから頂くこと自体は致し方無いと思います。「えー、そんなお金いるって前言ってなかったじゃん!」と不満を言いたくはなるでしょうが、「音楽の普及のため」という大義にとって必然性があるならば、しかるべく著作権料を徴収すること自体は納得してもらえるはずですし、育ての親が良い親なら破産なんてさせたくないので「しょうがないなあ…」と言いつつもみんなお金を出すと思います。
問題はお金の請求そのものではなく、JASRACが「音楽の普及」を阻害するような「こじらせ」をし始めてしまったことなのです。
音楽ビジネスは聞き手がいなければ成り立ちませんが、その価値の源泉はやはり「音楽をつくるひと」だといってよいでしょう。そういった源泉の人たちにもJASRACは敵対し始めてしまったのです。ここにはある種、子殺しのような倒錯があります。
ヤマハの事例でもそうですが、本来「守ってもらっているはず」の音楽家たちすら、JASRACに苦言を呈しています。
プロとして活躍したサッカー選手が次世代の育成に力を入れるように、「音楽」という文化が発展するためには、次世代に向けた普及活動をとることが必要です。次世代の音楽の育成の場である「音楽教室」にまで徴収の義務を追わせ、往々にして互助的な財政でなんとかやっているような演奏会の機会を奪うことは、(たとえそれでいくばくかの増収になったとしても)長い目でみると音楽を細らせることになるはずです。
そう、JASRACはいつしか彼から守ろうとしたプラーゲ先輩のようになってしまいました。
作り手への尊敬はどこへ?
先程「子殺し」という強い言葉を使いましたが、なんと驚くことに、JASRACは自らのルールにこだわるあまり、作者本人の演奏すら拒んだり、ラジバンダリしてしまいます。
僕は、JASRACにまつわる一番の問題は、音楽の作り手の意思が尊重されていないことだと考えています。先程のヤマハのように教育的な場でもそうですが、音楽は作っただけでは聞いてはもらえませんから、たとえば作者がプロモーションとして広く演奏したり、シェアしてほしい、とおもってもJASRACがそれを許さなかったりするのです。
これは「信託」というビジネスモデルによるのですが、作者や音楽出版社がJASRACに信託(つまり、”信じて託して”)してしまえば、権利の行使や制限はJASRACが意思決定者となるのです。たとえ本人の意思と真っ向から反対しても、です。(本当は著作人格権という原権利があるはずですが、大体契約時に「不行使」の条項などがあるので形骸化しています)
「信託」により、JASRACはそもそも音楽を生み出す生産者たる「作り手」以上の力を持つようになりました。
「こじらせ系ビジネスモデル」の暴走
僕は、これをJASRAC批判として書いているわけではなりません。
JASRACで働くひとに悪意があるからというわけではない。原因は「こじらせ系ビジネスモデル」の暴走にあるのではないでしょうか。
詳しくはいつかどこかで書きますが、僕はビジネスモデルの追求が企業を狂わせるケースを割と多く見てきました。特にそれが「短期的利益」の追求と合わさると最悪です。
・視聴率やPV至上主義のメディア
・クライアントにおもねり、パラサイトするコンサルティング会社
・工数を上げ売上を増やすため開発期間を伸ばす受託会社
・加盟店を搾取するフランジャイズ企業
などなど。これらのケースに共通することであり、最も怖いことは、売上や利益を追求すると、極めて合理的に暴走して自らの本来価値を壊していく、ということです。
たとえば、メディアにとって生命線はコンテンツであり、その受益者は視聴者です。しかし、お金は広告出稿企業から出る。そうするといずれそっちのほうが大事になり、視聴者メリットやコンテンツのクオリティすら無視してバズやステマだけのスカスカのコンテンツを作り始める。
本来はクライアント企業が見えてない価値に導くことがミッションのコンサルが、クライアント企業の偉い人に歯向かわず嫌われないことが生存戦略になっていく。しかも風見鶏でパラサイトすると燃費がいい。楽して儲かる。
ここでのポイントは2点あります。
一つは、これが目先の業績から考えると合理的な判断だということ。しかし、長い目でみると「コンテンツ」や「思考力」「開発力」「チャネル」など、価値の源泉を枯らしていく自殺行為です。
そしてもう一つは、価値とお金の出どころがちがっており、それがねじれを生んでいる、ということです。支払う人payerが受益者beneficiaryではない。
そしてこれを是正する方法は、ビジネスモデルを本源的価値の受益者からお金を取るモデルに変えることです。視聴者課金のメディア(Netflix)、成果連動型のコンサルフィーや開発費、加盟店とのプロフィットシェア、など。
作り手よりも権力をもってしまったJASRACは、音楽を作り手から切り離して「自分のもの」のように考えてしまっています。しかし本来、JASRACは音楽を生み出しておらず価値の源泉は別にあります。そう、本来、JASRACは「作り手」のための補助となるサービサーでなければならないはずです。
その点を勘違いし、専制的立場から「音楽」そのものに仇することになってしまっている。これこそ、(いかに徴収に正当性があろうと)JASRACが嫌われる理由ではないでしょうか。
「音楽の作り手」の気持ちと寄り添い、その本懐に戻り「音楽の普及」に努めていくこと。(たとえば、「徴収」という言葉をやめて、作り手の意思を反映できるように曲ごとや場所、期間を区切った料金プランをつくる、など)
JASRACが再び、音楽の普及の「育ての親」となることを期待したいと思います。
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