見出し画像

日本は「外国人嫌い」:バイデン大統領発言を考える

日本や中国における経済の低調を移民の少なさに結び付け、さらにそれを「外国人嫌い」のせいだとしたバイデン大統領の発言は、波紋を呼んだ。

このロジックには二重に問題があると言えそうだが、日本が「外国人嫌い」という批判には、どこか「実は、本当にそうかも・・・」と思わせるところがある。そのため、私を含め日本人として、この発言をよくある政治家の失言と片付けられず、やや過剰にまで反応してしまうのではないだろうか?

私の職場であるEYの東京オフィスでは、多数の外国籍社員が働いている。数人をサンプルに彼らの意見を聞いてみたところ、よりニュアンスのある答えが返ってきた。それは、日本が「外国人嫌い」というよりも、日本の文化が見えないルールであふれているため、「外国人はきっと、日本のルールが分からないだろう(故に、日本に溶け込めないだろう)」という先回りした老婆心から、外国人は往々にして排除されるというものだ。

例えば、ある外国人同僚は、日本で銀行口座を開くためにはすべての書類について漢字記入が前提のため、非常に苦労したという。これが米国であれば、当たり前にスペイン語表記も許され、外国人を受け入れやすいと比較する。日本社会を縛る慣習は許容範囲が狭いため、その社会で育ったネーティブ以外をたやすく寄せ付けない。

一方で、そんな日本独特のルールが頑固に守られているからこそ、清潔で規律ある社会が保たれているという好意的な意見も聞かれた。私も実際、マンハッタンに住んでいた時期、なぜか汚れ果てた公衆電話ブースから出火しているそばを平然と人が歩いている景色に衝撃を受けたことがある。公衆のものを大切にする意識は、総じて日本の方が高そうだ。

だから暗黙のルールが分かって守れる外国人ならば受け入れられるのだ、と同僚のひとりは主張した―ラスト・サムライのように、見るからによそ者の容姿でも、日本人の精神を宿すと認められれば大丈夫。

確かにそうかもしれない。しかし、日本人の内面に同化した外国人しか日本になじめないのであれば、それは問題だ。異なる考え方が共存し、せめぎ合ってこそ革新が生まれ、現代の複雑な問題に対処できると多様性の効能は理解されている。日本人と同じ価値観を持つ外国人のみを受け入れる社会では、多様性を受け入れる包摂社会とは呼べないだろう。

長い蓄積に基づく日本の文化を急に変えることは不可能だ。一方で、日本に住む外国人は増加を続け、時にあつれきを生みながらも、マイクロなレベルで統合は常に進んでいる。共生のためには暗黙のルールを「見える化」することも必要だろうし、それによって相互理解が進んだり、より良いルールが生まれたりすることもあるだろう。

会話に参加した日本人の同僚は、「日本社会は、日本人でも標準モデルに合わない少数派には息苦しい」と指摘した。タイトな文化の良いところを残しながらも、日本がさまざまな人に住みやすい社会になることを願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?