男らしさという規範とは「自己肯定を得るための不自由だけど安心な檻」
未婚者は既婚者より幸福度が低く、未婚者の中でも未婚男は未婚女より幸福度が低い。年代別では40代がもっとも幸福度が低い。世界的にも日本の未婚の不幸度は高い。
総合すると日本の40代未婚男は世界一不幸と言えるのかもしれません。
では、未婚男性の自己肯定の低さの源はどこにあるのか?
そんなことについて考察しています。東洋経済オンライン連載「ソロモンの時代#55」、ぜひご一読ください。
意外な発見がありました。
こういう記事を書くと、マウントしたがりの既婚男性は「結婚してるから自己肯定感が高いのではなく、自己肯定感が高いから結婚できているんだ」とか言うんですが、それこそ因果の錯誤。
じゃなぜ離婚男の自殺率は高いんですかね?
離婚した男性の自殺率は驚異的に高いという記事はこちらです。
自己肯定感の高い既婚男性に忠告したいのは、あなたが自己を肯定できているのは、決しててめえの力ではなく、妻や子という「自分が守るべき対象がいる」という環境によるものです。それを勘違いしているから、離婚で自分の社会的役割を全否定されると生きていけなくなるんじゃないですか?
またこんなコメントもきました。
自己肯定感が少ない「から」、女性にも好かれない。自己肯定感が少ない「から」、男は男らしくなんて言えない(今の自分をさらに否定する事になる)、という可能性も十分にあると思いますよ。というか、そっちの方がしっくり来ませんか。
来ませんw
それはコメントされている方自身が結果論によって因果を遡って考えてしまっている、いわゆる「因果関係の推論」の罠にはまっているだけだと思います。
「自己肯定感を高めれば女性にモテる」などというルートは決してなくて、恋愛工学だかなんだか知らないけど詐欺的なセミナーなどでよく言われたりもするけど、そんなものにいくらお金を払っても自己肯定感なんかあがらないし、ましてや異性にモテるようになんかなりません。かつて、漫画雑誌の裏表紙にあった「俺はこのブレスレットでモテモテになった」という広告と同じくらい胡散臭い。
「自己肯定感を高めれば女性にモテる」という言葉はそれくらい人を騙す力があるということかもしれないけど。
そもそも自己肯定感が高いというのが先にありきなら、なぜ年代や年収によって自己肯定感が左右されるんですか?中学・高校生の時の女子の自己肯定感が最低なのに、20代以降あがりまくるのはなぜですか?
自己肯定感とは、決して自身の気合によってあげられるものではありません。人との関係性という環境の中でしか上下しないんです。幸福感とは本人の主観ですが、自己肯定感とは環境とあなたの適合具合を数値化したものと言ってもいい。
いい環境(場所にしろ人間関係にしろ)にいれば、自然と自己肯定感は高まっていきます。反対に嫌な環境にいれば、日に日に自分が嫌いになっていくものです。
「他人や環境に依存するものなんて自己肯定感じゃない」というマッチョ言葉を言う人もいますが、そう思いたければ思えばいいけど、自分の内面だけで自己肯定できる人間なんかいやしないから! いたとしたらそれ、錯覚か単なるバカだから。
記事で紹介していますが、意外な発見とは、自己肯定感の高い人は男らしさや女らしさという性別役割規範の高さと相関があることでした。男らしさ規範意識の高い男性が自己肯定感高いのは、男らしくあるという役割を与えられているその環境のおかげです。自分の力じゃないことは知っておいた方がいいでしょう。
「男は男らしく、女は女らしく」という性別規範は、決して高度経済成長期や明治以降の規範などという最近のものではなく、縄文時代の狩猟生活時代から連綿と続いているものです。
男は「男であるという役割」を与えられることで、たとえそれが苦しくても辛くても自己肯定を得られるものであり、それがやがて父という形に変えても同様です。
しかし、勘違いしないでほしいのは、男は男らしくないとダメなのか?ということではありません。男らしさというのは自己肯定を得るための、手っ取り早い手段のひとつに過ぎません。
男らしさという不自由な規範にのっとることで、実は余計なことを考えたり、余計や役割を果たさなくてもいいようになるからです。規範を守るというルールさえ守れば、自己肯定感を環境がもたしてくれるからです。
全員が結婚していた皆婚時代、男も女も自分の意志に反した結婚をした夫婦も多いでしょう。でも、その環境こそが2人の自己肯定感を産んだとも言えます。
つまり、男らしさや女らしさという性別規範とは、「自己肯定を得るための不自由な檻」なんです。でもその不自由さは安心ももたらしてくれます。
男らしさや女らしさなんて古臭い。男女ともそんなものから解放されるべきだ。そんな論説をよく耳にしますが、まあ、それもいいでしょう。でも、そうした檻の外の自由な環境で、自己肯定感を得るためにはよほどの努力と能力が必要なのであるということを覚悟しておくべきです。
不自由な環境も苦しみはありますが、自由な環境だからといって苦しみから解放されるものではありません。
苦しみや辛さなんてどこにいっても、どんな状態でもあります。
一見、幸せそうに見える人が苦しみや辛さがないなんてことはない。
それと、自己肯定感は高すぎればいいというものではありません。実は、自己肯定感がやたら高いという人は、逆説的ですが、自己肯定感が低すぎる人と同じです。
どちらにも共通しているのは、人と向き合えていないということ。人との関係性の中で自己を見つめられない人は、所詮自己評価なんてできっこない。
ダニング=クルーガー効果というものがあります。能力の低い人間ほど自分のことを過大評価するという傾向のことです。要するに、自己評価ができないってことです。自己肯定しまくりの人も、自己否定しまくりの人も、ある意味では自己評価能力がないということと同義なのです。
自己肯定感とはシーソーのようなもの。自分の体重が軽すぎて頂点から動かない状態も、自分の体重が重すぎて地面から動かない状態も、どちらも停滞で、良い状態ではありません。そもそも静止状態ではない。一番いいのは、シーソーの反対側にいる人との関係性の中で、自己肯定したり自己否定したりをいったりきたりする動的な状態こそが本当の意味での自己肯定なんだと思います。
肯定しっぱなし、否定しっぱなし、はどっちもダメ。
それにしても、相変わらずヤフコメはおかしなコメントが多い。
「既婚者は決まったサンドバッグ・召使いがいるから、未婚者より自己肯定感が高い」と解釈可能なんじゃないだろうか。
配偶者を召使いだとしか見ていない人というのは、他人の犠牲や苦しみの上にしか自己肯定や快楽を得られない(人と向き合うのではなく人を踏み台として利用する)、とても可哀そうなサイコパスな人だと思います。
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