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便利と情緒

東海道新幹線のワゴンサービスが10月で終了する。それほど新幹線に頻繁に乗るわけではないものの、寂しさを感じてしまう。両親の実家が関西だったので、子どものころ夏休みの行き来は東海道新幹線。せっかくワゴンからアイスクリームを買ってもらったのに車酔いで吐いてしまったり、母が父のお土産に必ずワゴンから静岡のわさび漬けを買っていたり、新幹線の旅の思い出とワゴンサービスは切り離せない。

駅のお弁当や飲み物は充実しているし、これからグリーン車では、スマホからの注文が可能になるという。確かに、ワゴンサービスがなくなっても、顧客の便利さはそれほど変わらないのかもしれない。しかし、失われるのは、動く車内でワゴンを押す人から直接ものを買うという行為にまつわる、ある種の情緒だろう。どのように呼び止めて注文するか、少し逡巡する瞬間は人間的だ。また、同じ人を呼び止めて交換を行うことで、赤の他人である他の乗客との間接的なつながりも感じられる。

ひとを介したサービスには、どこかのんびりとした雰囲気が伴う。ワゴンサービスは「便利」で始まったとしても、「情緒」が副産物として生まれる。スマホでの注文は、ひととひとの間にテクノロジーの層が入るため、「便利」の反面、「情緒」が失われる。

同様の例はタクシーだ。アプリでタクシーを呼ぶと確かに便利で、私もよく使っている。中国では既に、手を挙げてタクシーを止めるという行為自体、あり得ないらしい。しかし、街を走る多くの車両の中で、「たまたま」この運転手さんの車に巡り合ったという偶然の出会いを楽しむ感覚は、アプリ配車では薄れてしまう。

昔読んだイギリスの小説に、若い女性が祖母に昔の何がそんなに良かったのかを尋ねるシーンがあった。しばらく考えた末、祖母は、昔は夕暮れになると、ひとつひとつ街灯を灯して歩く役割の男の子がいたと語る。センサーが察して自動的に電気がつくものではなく、ガス街灯の時代だ。もちろんその時代を知る由もないが、もし知っていたら、確かにそれは懐かしい景色だろう。

同じように、ワゴンサービスを惜しむ気持ちも「昔を知る」世代に特有な懐古的な感覚なのかもしれない。便利が合理であるとすると、情緒は対照的に非合理で、両者はそもそも相いれないのだろうか?すべてがテクノロジーの層を介して起こる世界は、果たして人間にとって住みやすいのだろうか?

新幹線のワゴンサービスは私にとって、便利と情緒をうまく混ぜたサービスだったように思える。経済合理性はさておき、やはり、その消滅は惜しまれる。

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