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ツイッターの「ビジネス」と「言論の自由」はどう変わるのか?

ツイッター社をイーロン・マスクが買収したことが賛否両論の議論になっています。

この件を整理すると、以下の二つの論点に絞られるとわたしはとらえています。

第一に、ツイッターをビジネスとしてどう成り立たせるのか。
第二に、表現の自由と、誹謗中傷に歯止めをかけることとのバランスをどうするのか。

順に説明しましょう。第一の論点については、ツイッター創業者であるジャック・ドーシーのこのツイートに端的に表現されています。

「わたしにとって重要なのはアイデアとサービスであり、この双方を守るためんあらわたしは何でもしていこうと思う。企業としてのツイッター社というものは、わたしにとってずっと唯一の悩みであり最大の後悔でもあった。ウォール街と広告モデルに支配されてきたからだ。だからウォール街からツイッター社を取り戻すことは、正しい最初の一歩となる」

赤字に苦しめられてきたツイッター社

ツイッターは2013年に株式上場して以来、赤字の連続でした。黒字化できたのはわずかな時期しかありません。これは同じSNSであるフェイスブックが莫大な利益を上げ続けているのと対照的です。短文しか読まれないツイッターはユーザーの滞在時間がきわめて短く、広告効果を得にくいからというのが良く指摘されています。

ではツイッターはどうすればいいのか。ここで思い出すのは、アマゾンのジェフ・ベゾスが2013年にワシントンポスト紙を買収したケースです。ベゾスの経営手腕でその後同紙は黒字転換を成し遂げますが、買収段階では経営は絶望的な状況だったと言われています。それでもベゾスが同紙から頼まれて、しかもアマゾン社としてではなく個人として買収に乗りだしたのは、米国の代表的なメディアであるワシントンポストを消滅させてはならないというベゾスの「男気」だったようです。

時は流れて2022年現在のツイッターは、もはやSNSの域をこえて情報の巨大な流通プラットフォームとなっています。大手マスメディアと同じような役割を果たし、民主主義の基盤となっているのです。これをイーロン・マスクという世界一位の富豪が引き受けるということの意味は、非常に大きいと言えるでしょう。

イーロン・マスクは「言論の自由の絶対主義者」

第二の表現の自由の問題。イーロン・マスクは「言論の自由の絶対主義者」とみずから公言しており、今回も「言論の自由は機能する民主主義の礎石で、ツイッターは人類の未来に不可欠な事柄が議論されるデジタルの町の広場だ」とコメントしています。

これらの発言に対して「ツイッターは今後、誹謗中傷を放置するようになるのではないか」と不安視する言説が多いようです。マスクが(今は距離を置いていますが)トランプ前大統領に以前は近い関係にあったことも、その不安を増幅させているようです。トランプはツイッターから永久凍結処分になっていますが、このときにマスクは「西海岸のハイテク企業が、言論の自由の事実上の裁定者になったことを、ものすごく不満に思う人が大勢いるだろう」とコメントしたことも上記のBBCの記事で指摘されています。

しかしマスクがまさにこのコメントで言っているように、私企業でしかないビッグテックが「言論の自由」の線引きを決めてしまうことについては、以前から問題視されてきました。日本でも、だれかがツイートの削除やアカウントの凍結をされるたび、その規準やガイドラインがまったく明確ではないことに対して多くの批判が出ています。

そもそも、いくら乱暴な言説を繰り返していたとは言え、アメリカ大統領であった人物を永久凍結するという行為は本当に公正であると言えるのか。これはキャンセル・カルチャーではないのか。そういう疑問もあります。

キャンセルカルチャーの線引きは、いつも恣意的で党派的

アメリカで猛威を振るい、日本の一部にも波及してきているポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)によるキャンセル・カルチャーについては、「何が正しくないのか」という線引きがつめに恣意的に行われ、しかもその線引きがイデオロギーや党派によって左右するという根深い問題がくすぶってきています。

その意味では、決してポリコレ派ではないイーロン・マスクがいったんツイッターでの「言論の自由」について線引きしなおすというのは、決して悪いことではないとわたしはとらえています。脊髄反射するのではなく、とにかく今後のツイッター社の対応を注視していくことだと思います。

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