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宗教とアート 〜アートはismを寛解する。その分散性・異質性・包摂性

お久しぶりです、メタバースクリエイターズ若宮です。

今日は「アートの分散性と包摂性」について書きます。


正解より「歪さ」をだいじに

ここ2週間ばかり出張続きだったのですが、先々週は福岡女子大でのトップリーダー研修、先週は武蔵野市さんの部課長会と、アート思考の講演やワークショップをする機会が続きました。

福女大に九州の女性リーダーが集まるトップリーダー研修
武蔵野市の部課長会

どちらもマネジメント層が対象だったので、最後には組織のリードの仕方やあり方についてもお話ししたのですが、そこで「アートの分散性」ということについて触れました。


アート思考では、VUCAと言われる正解がない時代、一つの正解を求めるのではなくそれぞれの「歪さ」が大事、という考え方をしています。

昭和の時代には「正解」があり、それと異なる解は「不正解」として「✗」をもらったわけですが、この「不正」という字はぎゅっと一文字にすると「歪(いびつ)」という字になります。

「正解/不正解」ではなく「歪解」というのは、人はそれぞれ異なる「歪さ」を持っていて、どれが良いとか正しいとかではなく、それぞれの形に魅力や価値がある、という考え方です。貝殻や小石のようにひとつひとつ異なる形の、それぞれの良さがある。


こうした価値観をベースとするため、客員教授や講演を引き受ける際には「先生」と呼ばないでください、ということを条件にしています。技術の習得や知識の学びでは(先に生まれた)「先生」が答えを持っていることもあるとは思いますが、少なくとも正解のないアート思考においては、「先生」が権威化し、答えを持っているという幻想を避けるためにそういう呼称も禁じ、序列のないフラットな場が大事だと思うからです。

アートやアート思考は究極、誰かから教わることができるわけではなく、自ら自分らしい方法を見つけることでしかありません。それぞれが主役であり、授業や他の参加者という触発によって、自分ならではの価値と自ら出会い直すことを目指しています。


アートはismを寛解する

僕はなぜアートが好きかというと、(特に近代以降の)アートにはこのような「脱-権威化」の力があると思うからです。

僕は、アートは「ism(主義)」を柔らかく溶かしてくれるものだと思っています。よく「価値観の凝りをほぐす」という言い方もするのですが、凝り固まった価値観をほぐし、ismを寛解させてくれるのがアートだと思うのです。


人は何かを信じるとき、徐々にism化(原理主義化、至上主義化)し、他の考え方を否定したり排除するようになることがあります。

例えば、「人種race」や「性別sex」などはそれ自体では単なる属性の一つにすぎませんが、これがism化すると「racism」「sexism」など差別化します。
「見た目look」に気を使ったりそれに価値を認めること自体は必ずしも間違いではありませんが、「lookism」になると、中身や本当に重要な能力を無視し見た目だけで人を判断するようになってしまいます。「capital資本」も未来への原資という意味で価値があり有効な仕組みですが、「capitalism」となってとにかく経済資本だけを追い求めると変質してしまいます。

アートは、こうしたism、固定観念や美徳とされていることに対して、価値観のオルタナティブ(別の可能性)を提示してくれます。これにより、先入観を相対化し再考する機会を与えてくれる。これがアートの「触発」です。


人は生きる上で何かを信じることも必要です。また、ある特定の考え方を「正」とすることは安定をもたらし、安心できます。常に何も信じないという状態は不安定で非常にストレスフルであり、脆弱ですらあります。

しかし、ある価値観が絶対化しそこに疑いを持てないようになると「盲信」になってしまいます。


ismや固定観念を相対化するのが難しいのは、それが一度は「美徳」であり価値的に高かったからです。

たとえば昭和時代に生まれた僕は幼少期に、社会から「男らしさ」や「女らしさ」といった価値観を「美徳」として刷り込まれました。

大黒柱として家族を養い、男子厨房に入らず、女々しく小さなことを気にせずに粗野に振る舞い、豪放磊落に生きるのが「男らしさ」だったのです。しかし今や時代が変わり、仕事上ジェンダーの平等が目指され、家事や育児も分担するのが当たり前になりました。それでも時々、旧い価値観で問題発言として炎上するケースがありますが、その大半が、実は差別的な意図や悪気がなく《 ・・》、かつての美徳に沿ったリップサービスでしたジョークだったりします。

価値観は時代によって変化していきますから、常に一度信じたものをすら疑い問い直すスタンスが大切ですが、そもそも美徳だと教えられ信じていたことを手放すことは価値観のクライシスを伴うため、簡単ではないのです。そこには美徳の衝突があります。

アートの触発はしばしば衝撃をもってこうしたism化の殻を打ち破り、価値観を崩壊させ、その地盤を揺るがして再考させてくれます


僕が「デザインは社会から葛藤を減らし、アートは葛藤を増やす」というのはこの意味においてで、アートと触れるとモヤモヤすることや葛藤があるのですが、それが凝り固まった考え方を緩め、新たな視点を与えてくれるのです。

宗教とアートの親近性

ところで、最近また宗教とアートについて考えてみています。

宗教とアートには似ている部分や関連はあるけれども、一方でちがいもあります。

まず、宗教とアートは古代から密接な関係にあります。音楽や美術は呪術的な儀式や祭りに使われ、建築様式の進歩は宗教建築がリードし、宗教画もアートを進める上で重要な役割を果たしてきました。

宗教とアートの共通点の一つは、「モノ」的な価値を超えることです。通常、モノの価値は素材などの物理的コストや機能的な便益から定まります。

しかし陶芸家が作った壺は、同じ用途の普通の壺と比べて非常に高価になることがあります。素材がまるっきり一緒で、なにかを保管するという全く同じ機能を果たすものでも、他の壺の数百〜数万倍の価格になることすらあります。(むしろ美術的な価値のある壺はモノを保管するような実用には使われないことが多いので、有用性はほぼゼロにもかかわらず価値が高い、と言うべきかもしれません)

宗教でも、壺の価値はモノ的次元にとどまりません。高価で売りつける「霊感商法」が問題になるのはこのことの一例です。もちろん、価格を詐称したり無理矢理に購入させる場合には実際の価値とはことなりますが、そうでなく本人が同意している場合には、少なくとも購入者はその価値を信じているのであり、いわゆるモノ世界の市場原理とは異なる価値が生まれる点で宗教とアートは似ています。

また、宗教とアートは身体性が重要である点でも似ています。宗教の祈りや儀式においては詠唱したり、ある種の「振り付け」を全員で行ったり、身体性が重要な役割を果たします。それ故しばしば、アートは宗教の布教に活用することがあります。

モノ的次元を超えた価値化や身体性の重要性が双方に共通しているのは、宗教もアートもロジカルに説明できない価値を捉えようとするためでしょう。しかし、一方で宗教とアートは、逆のベクトルも持っているようにも思えます。


宗教の「凝集性・同質性・排他性」とアートの「分散性・異質性・包摂性」

まず、宗教は基本的に中央集権的で、教祖や神体、教義を中心とした「凝集性」を持ちます。

故に、ほとんどすべての宗教がその教義の中に、異教を排斥する指示があります。特に「嫉妬する神」ですらある一神教では、他の宗教を信じたり、偶像であっても崇拝することは罪と見なされることが多いのです。

また宗教にはしきたりや儀式があり、それを通じて信者は同じ思考や同じ行動をするようになります。これは、宗教が同質性を高めるモメンタムを持っていることを示しています。

一方で、アートには正解がなく、解釈や触発される感情は人それぞれです。アート作品はもちろん高い価値がつけられ大事にされますし、芸術家はリスペクトされます。しかしだからといって、宗教のような中央集権的凝集性はあまりありません。宗教では異教や教義のちがいにより争いや時には人殺しさえ起こりますが、アートの解釈を巡って戦争が起こることはあまりありません。同じ作品に出会っても人それぞれ違うものを持ち帰ることが許され、異なる解釈は許容されます(そうした意味では思考としては宗教よりは哲学に似ています)。その触発は同質性よりは異質性に基づいているのです。


結果としてアートは異なる価値観を排斥するのではなく、包摂する傾向があります。

アート思考のワークショップでも一人ひとりの歪さを発掘するワークを行いますが、偏愛や身体的な感覚などそれぞれに異なる源泉が掘り出されます。ロジカル思考は共通理解、デザイン思考は共感をベースにするので「わかる!」という感覚ですが、アート思考ではそれを突き抜けた個の歪さが出てくるので深く掘れたときほどお互いに「わからない…」というゾーンに入ります。しかし、このわからなさ、わかりあえなさを前提として受け入れる包摂性があるのです。


アート的組織

宗教的な中央集権モデルは、20世紀までは組織として強いモデルでした。企業で言えば、社長や上司の言葉が絶対で、みんなが同じ方向を向いて進むので効率も良い。

僕自身は同一性が高い組織が苦手で息苦しさを感じてしまい、大企業とかは向いていなかったタイプなのですが、こうした凝集性は組織としての「強さ」をつくりますし、「迷わずに信じる」というというのは成員にとってのある種の「救い」にもなります。

しかし大戦での全体主義をはじめ、20世紀を通じて同質性のデメリットや危うさが浮き彫りになってきました。そしてその反省からダイバーシティとインクルージョンが言われています。

硬くて強く尖った組織は武器としては便利ですが、人を傷つけたり折れやすいものです。これに対し、トップダウンではなく分散化され、異質性を前提に互いの違いをリスペクトし合いながら、創発的に価値が生まれる組織がこれからの組織ではないでしょうか。

スタートアップでも中央集権的な組織の方が短距離走に向いているところはあるのですが、メタバースクリエイターズはクリエイターのそれぞれの「歪さ」を発揮し、異質性を尊重し触発し合いながら創発するアート的な分散型組織のアプローチを模索し、日々試行錯誤しています。



アート思考のワークのあと、多くの方から「自分の歪さを解放してもいいんだ、と思えて楽になりました」という感想をいただきます。

私たちは普段、実は自分自身とは関係のない、社会の役割や期待に無理やり合わせていることが多いんですよね。これを「他分」=他の人が決めた分節と呼んでいます。

ママはママらしく、子供は子供らしく、課長は課長らしく。しかし、そうした「あるべき」に囚われて自分の本来の歪さを殺し、我慢している組織では、互いのちがいを包摂できず他人にも我慢を強制するようになってしまいます。

日本ではジェンダーダイバーシティを含め、まだまだ多くの可能性が社会的に抑圧されていると感じています。もしもっと自由に、もう少しそれぞれの歪さを解放できれば、社会には計り知れないポテンシャルがあると思っています。(先日のソージュさんイベントでの奥田浩美さん、市原明日香さんと鼎談もまさにそんな可能性のお話でした↓)

そしてそのためにもアートの「分散性・異質性・包摂性」はこれからますます重要になってくるのではないでしょうか。


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