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日本人は「持たざるリスク」に目覚めるか

「持たざるリスク」に直面する日本の家計
岸田政権の掲げる「資産運用立国」に乗じて家計の資産運用を取り上げる報道が増えています。2024年以降にNISAの非課税投資枠が大幅に拡充されることもあって、投資先の取捨選別は多くの家計にとって自分事になっているという面もあるでしょう。8月19日の日本経済新聞は『現預金が10年で2割減も?インフレ下のリスク』と題し、日本の家計部門が資産の大宗を寄せる円の現預金で保有することのリスクを特集しています:

日経新聞では同21日にも『機会損失2000兆円、運用立国に挑む 「ふやす文化」推進』と題し、やはり類似の論点を取り上げています:

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUB172TU0X10C23A7000000/

機関投資家においては「キャッシュ潰し」という言葉があるくらい「現金を無用に持つリスク」が意識されますが、日本の家計部門ではむしろ「沢山持って置くと安心」という認識が未だ強いものでしょう。しかし、後述するように、安全であったはずの現預金に放置しておくだけで対ドルでの価値が大きく目減りした近況を踏まえ、「持たざるリスク」がそろそろ日本でも認知され始めても不思議ではないように感じます

図示する通り、ドル/円相場の歴史は基本的に「円高の歴史」でした:

よって、為替変動の歴史だけに焦点を当てれば「円の現預金」は賢明な選択だったことになります。「円高の歴史」が「デフレの歴史」だったので、理論通りの展開です。しかし、2022年、円は対ドルで最大▲30%、対ユーロでは最大▲18%下落しています。通年で見てもそれぞれ▲12%と▲7.5%でした。ちなみに過去3年間(2019年末と2022年末)で比較した場合、対ドルでは▲17%、対ユーロでは▲13%と下落幅は拡がります。今年に入ってから日常生活に関係する財・サービスの価格が著しく値上がりしているように感じるのはこうした名目ベースでの円安傾向も当然影響しています。こうした状況も「持たざるリスク」を気づく契機になってくるはずです

過去のnoteでは再三論じている事実ですが、2012年前後からドル/円相場は円高になりにくくなっています。これは上図を見れば分かるでしょう。この2012年前後という時期はちょうど趨勢的に貿易黒字が稼げなくなった時期と符合します。つまり、円相場が構造的に変わり始めたのが10年程前であり、そこに近年ではデジタルやコンサルティング、研究開発といった「新時代の赤字」が重なっていることが円相場の軟調を招いているというのが筆者の仮説です。なお、上述の円相場動向は名目ベースの話で、物価格差を加味した実質ベースはさらに円の減価が大きくなります。内外物価格差を加味した実質実効為替レートは2022年通年で▲14%下落しています。その後もREERは続落しており、2023年7月時点の水準(70.24)は1971年8月以来、半世紀ぶりの低水準に沈んでいます:

「株価の劣後」+「為替の劣後」
資産運用を検討する上で重要なことは、こうした日本の劣後は通貨という資産クラスにとどまっていないということです。上述の日経新聞記事では機会損失2000兆円という仰々しいヘッドラインが踊っていました。その数字を額面通り受け止めるかどうかは議論があるでしょう。ある意味で壮大な皮算用であり、これを損失と表現するのも抵抗はあるからです。しかし、米国株やドル/円相場の動きを踏まえる限り、相当大きな「持たざるリスク」が存在したのは事実です。例えば、株価指数で見た場合、直近3年間(2019~2022年)に関して言えば、日経平均株価指数やTOPIXが+9%程度の上昇率だったのに対し、NYダウ平均株価指数やS&P500指数は+15~18%程度と倍程度のリターンがありました。その上でそうした米国の主要株価指数に為替リスクをヘッジせずに投資していた場合、円安・ドル高による為替差益もオンされることになります。むしろ過去3年間について言えば、ドル/円相場の変化率の方が大きかったくらいです:

2022年に関して言えば、米国の主要株価指数は調整局面にありましたが、円投していたことで為替差益に助けられたという投資家は多いはずです。

もっとも、株価のパフォーマンスに関して言えば、日本が米国に劣後している構図は今に始まったことではなく、長年続いてきたものです。にもかかわらず、それが問題視されるようなことは特にありませんでした。これは株価のパフォーマンスが海外に対して大きく劣後しても日常生活に直接的な痛みを感じることは無いからでしょう。

ですが、為替はそうはいきません。自国通貨が外貨に対し下落しても「海外旅行に行かないから関係ない」という話にはならず、輸入物価経由で一般物価に影響が及ぶことになります。多少の円安ならばそれも企業部門が吸収することで家計部門の痛みには発展しません。しかし、2022年以降のように、短期間でここまで下落すると価格転嫁は止められないものになります。かくして家計部門は現在、「円の現預金」以外の資産クラス、厳密に言えば外貨建て資産について「持たざるリスク」をこの上なく感じ取りやすい状況に陥っていると考えられます
 
米利下げを待つ意味はあるか?
筆者は四半期に一度、日銀から資金循環統計が更新されるたびに最新の数字を用いて「家計の円売り」こそ日本経済が抱える最大のリスクだと議論を重ねてきました。2023年3月末時点で円の現預金は1100兆円で家計金融資産(2043兆円)の54%を占めます。現状、累次の利上げを経て1年物の米ドル定期預金でも4~5%の金利は付く状況にありますが(※もちろん、各行によって条件は異なる)、未だ日本人にとって最大の資産クラスは金利の全く付かない自国通貨の現預金です。過去1年半で円のドルに対する購買力が最大▲30%も下落し、今も殆ど修復されない状況が続く中、いくら保守的な日本の家計部門でも円から外貨へのシフトを検討し始めても不思議ではないように感じます。それを考えさせる契機となる値上げも止む気配がありません。

この点、プロである有識者をして「米国経済のリセッション入り、これに伴う米利下げ」が次の大きな展開だと指摘される状況にある中、「それを待ってからにしよう」と考える向きも多いと推測しますしかし、本当の問題は「米国経済のリセッション入り、これに伴う米利下げ」という局面に至ったとして、本当に円高・ドル安が進むのかという話でしょう

もちろん、利下げに合わせて円高は進むでしょう。しかし、貿易収支だけではなくサービス収支からも外貨流出が拡大する中、100~120円といったかつてのレンジに復帰できる勝算はあるのでしょうか。常々主張しているように、筆者は難しいのではないかと感じる立場です。円安が長引けば諦観と共に外貨運用に動く層は出て来やすくなるはずです。その規模とペースによっては大きな円安リスクに発展します。
 
問題は「為替レート」よりも財・サービスに付く「値札」
さらに根深い問題があります。百歩譲って、100~120円のレンジに戻ったとしましょう。しかし、それは名目ベースの世界の話であって、実質ベースの世界の話は別です。例えば今年1月、ドル/円相場は127円台まで下落し、これが今年の年初来安値となっています。前年11月の152円付近と比較すれば▲16%の下落でした。つまり、円を主語とすれば+16%上昇しています。しかし、同じ期間(2022年10月~2023年1月)の円のREERは+7.1%しか戻りませんでした。名目の世界で円が買い戻されても、実質の世界で劣後した日本の物価環境は簡単には修正されないわけです。例えば現在、ニューヨークでミネラルウォーター(500ml)は2~3ドルという(もし違っているということがあればご指摘ください)。日本で同量のミネラルウォーターは100円前後でしょう。極端な話、1ドル100円まで円相場が急伸しても、米国のミネラルウォーターの値段は日本のそれに比べて2~3倍高いということになります。つまり、本当の問題は「1ドル=〇〇円」という「名目為替レート」ではなく、財・サービスに付けられている「値札」の違いです。

値札の違いは賃金格差に起因します。賃金格差は簡単に埋まらないでしょう。日本より高い賃金コストをかけられて提供される財やサービスが高くなるのはある意味当然です。日本が海外から財を輸入するにあたっては結局、こうした賃金格差が乗せられた支払いを強いられることになります。これが「実質(≒REER)ベースで見れば半世紀ぶりの円安」の正体です。賃金は直ぐには上がったりしないことを思えば、少なくとも名目為替レートで負けている部分くらいは外貨運用を通じてヘッジしようという発想に至るのはごく自然な話でもあります。

「持たざるリスク」を感じる人々が増えれば、その動きは潮流になってくるでしょう。日本では合理性よりも「皆がやっているからやる」というのが行動基準になりやすい国です。今のところ、資金循環統計でそうした動きを捕捉するには至っていないものの、その胎動を感じさせるニュースは散見され始めていることは念頭に置きたいものです。繰り返しになるが、家計金融資産が動く規模やペース次第では未曽有の円安リスクに直結することは知っておくべき論点として注記したいと思います。

 

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