「普通の」女性が「普通に」働く社会
数年前「こじらせ女子(男子)」なる言葉が流行った。実態よりも自己肯定感が低く、くよくよ悩んで行動を起こせない困ったちゃんを指すが、「こじらせ」という語感がなんとも課題の複雑骨折を想起させる。
こと女性の社会進出に関して、日本社会も相当に「こじらせ」ている。「ウーマノミクス」で輝けと言いはなつ反面、ジェンダー平等度は世界標準より異常に低いまま。女性の労働参加率(15-64歳)は69%とかつてなく高い一方で、働く女性の6割近くは非正規でキャリアを築きにくい。
最近New York Timesが盛んに取り上げる日本女性の記事は、いかに家事と仕事の両立が困難で、人手不足が深刻な保母さんでさえ職場でマタハラにあうという、まるで「女工哀史」を思わせる悲惨トーンで覆われている。
「こじらせ」の原因は何か?男女雇用機会均等法が施行されて30年以上が経つものの、見えないところで日本女性に「真面目に勉強したり、働いたりしなくてもいいよ」とささやく声が、構造的に残っている。
まず、人気のある大学や就職先へのエントリー時点で「普通の女子、入るに及ばず」という暗黙のメッセージが感じられる。大学の例をとろう。去年東京医科大の不正であからさまな差別があかるみに出たが、これは氷山の一角だろう。頑張る女子の足を引っ張る、見えない構造は根強い。入試は一見、公明正大そうだが、面接などで恣意的な手加減が十分可能である。
受験生を送り出す高校側の事情もある。女子には背伸びをさせず、安全圏を狙わせがちだ。この二つのからくりから、難関校医学部のさらに成績優秀者には、全体の少数派ながらも女子学生が集中する現象が起こる。結局、障害をものともしない超優秀な女子しか受けず・入らず、「普通の男子医学生」に匹敵するような「普通の女子医学生」マス層が欠けるからだ。
次に、社会の土台がまだまだ固定的なジェンダー役割分業体制に基づいている。社会保障制度は昭和を引きずり、男性一人が稼ぎ手の前提で作られている。例えば、人手不足で女性が最大の労働力供給源にも拘わらず、配偶者特別控除を気にする女性に労働時間を減らすインセンティブを与える矛盾が存在する。社会の枠組み自体、女性が本気で働くことを必ずしも応援していないのだ。
このように、多くの女性は、真面目に勉強し、バリバリと働いて世の中に貢献することに対して、常に微妙に心くじかれるような素地で生きている。さらに、バブル崩壊後のゼロ成長時代は長く、頑張ってもどうせ報われない、「女工哀史」は嫌、仕事なんて面倒くさいことは男性に任せておけば良いという自身の「逃げ」心理も加わると、女性活躍という字面の影で、「こじらせ」度はいよいよ深まるばかり。
実際、平成生まれ世代における女性の保守化は数字に表れている。平成28年度、内閣府による「男女共同参画社会に関する世論調査」によると、「女性が職業をもつことに対する意識」について、「子供が出来ても、ずっと職業を続けるほうが良い」と答えた20-29歳は50.4%、すぐ上の30-39歳世代の60.1%より10ポイント近くも少ない。ちなみに、成熟国では当たり前に思えるこの回答を選ぶ率が50%を切る世代は、70歳以上のみである。なんと、「女性活躍」の掛け声むなしく、意識は先祖返りしているようだ。残念ながら、世代間のこの傾向は、男性においても同じである。
この「こじらせ」日本を、どう自己改革できるだろう?社会の仕組みをただすためには、男性も女性もこの気まずい現状を認識し、表では「がんばれ、かがやけ」といいながらも裏では「ま、そんなにがんばるな」とささやく二枚舌をやめなければいけない。政治の決断に加えて、大学入学から女性に対する管理職登用の機会にいたるまで、意識改革の余地は大きい。
同時に我々大人は、働くことの意義を意識し、その魅力を中高生含む若い世代に積極的に伝えるべきだろう。自分でも納得していないことは、到底次の世代に伝えられない。今日、AIやギグエコノミーの台頭で、働く意味が根本的に問われている。「働くことって、本当に意味あるの?」という素直な疑問に、私たち自身がまず答えられなくてはいけない。
目指す姿は、実はシンプルのはず。ジェンダーに関わらず、ごく一部のエリートではない「普通の」ひとが「普通に」生き生きと働ける社会だ。