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「出来ない」でつながる。  「出来る」より「出来ない」が生む心理的安全性・寛容性と感謝・そして多様性

お疲れさまです。メタバースクリエイターズ若宮です。

最近、あらためて「出来ないことでつながる」ことについて考えたので今日はちょっとその話を書きます。


「出来ない」でやわらかくつながる海外との文化交流

弊社メタバースクリエーターズは、日本から世界へ羽ばたくクリエイターを生み出すことを掲げていて、メタバースを通じて日本にもっと興味を持ってもらえるように、VRChatなどメタバースでの海外ユーザーとの交流や接点づくりにも力を入れています。

メタバースの世界は基本的には国境がありません。もちろんインターネットも国境はないわけですが、テキストベースのコミュニケーションだとやはりどうしても言語で切り分けられてしまいます。

一方、メタバースの中ではなにも発信したり話さなくても「ただ居る」ということができます。身振り手振りで話すということもできますし、黙ってその場に居るだけで自然に話しかけられて会話やコミュニケーションが始まることも多いのです。

アバター同士なので見た目や年齢のようなバイアスがかかる情報なしにフラットに出会えますし、物理的には離れているため初めて会う人でも危険性も少なく、またほんの少しのスキマ時間でもVRChatに入るだけで色々な国の人と交流できるのはメタバースの利点です。(駅前留学より気軽な「メタバース留学」みたいな感じです)


メタバースクリエイターズでは先日、こうした海外と日本との交流のために「DEJIMA」というニックネームのワールドを作りました。VRChatは日本のオタクカルチャーとの親和性も高く、アニメのファンや、食や文化に興味を持って独学で日本語を学んでいるユーザーも多くいます。そうした海外ユーザーと日本のコンテンツや文化、観光のことなどについて情報交換するワールドが「DEJIMA」です。(そこでたまたま会ったユーザーがドイツ在住で「あ、来月ドイツ行くよ!」「こっちは9月に東京行くよ!」みたいなことが起こります)

ここでだいたい週に一回ぐらい、交流イベントも開いているのですが、北米、ドイツ、オーストラリア、中国、韓国、などなど色んな国の人が来てくれます。(日本人は半分弱くらい)


みんな出来ない「カタコト同士」の気軽さ

この交流会では主に、英語と日本語(&中国語、韓国語、スペイン語がたまに)が使われるのですが、全員がペラペラというわけではなく、ほとんどが「カタコト」でのコミュニケーションです。

カタコトの日本語に日本語で返したり、伝わらない時は逆にこちらがカタコトの英語を使いながら話すのですが、どちらもカタコトなので「英語を上手く話さないと」というような緊張や抵抗感がなくなり、お互いにある種の親密さが生まれるんですよね。


僕自身はメタバースクリエイターズを立ち上げるにあたって、英語も改めてがんばるぞ!、と決めてそれこそメタバース留学も含めて英語を話す機会をとにかく増やしているのですが、これまではやっぱり英語で話すことには抵抗があったというか、どうも敬遠しがちなところがありました。

中学校から少なくとも10年間英語教育を受けているはずなのに、日本人は「英語は話せない」と答えるひとがほとんどなのではないでしょうか?同一言語/
同一民族性が高い国なので、話す機会がない、他国語でのコミュニケーションが身近でないというのはありますが、それ以上に日本人はなんとなく「間違っちゃいけないプレッシャー」みたいなのが強すぎる気がするんですね。

どうしてこうなるかというと、話す機会がほとんどないのもあり、日本人が英語に触れる時間のほとんどは「試験英語」です。試験英語では「正解」があり間違えると減点されます。結果として英語は「採点・減点されるもの」というイメージが強まり、「ちゃんと話せないなら話さない」「話すのが怖い」という感じになってしまっている気がします。


これに対して、国籍も多様で誰もが完璧に話せない「カタコト同士」の状況はとても楽。誰も完璧に話せない状況にいると「間違うことが当たり前」なのでそこに心理的に安全な空間が生まれる気がします。


英語を話す場でも、みんなが完璧な英語を話す会に参加するのは、ハードルが高いですよね。自分だけ間違っていたらどうしよう…とか自分だけ話せない劣等感を感じて、結局一言も話さずに帰ってしまう、なんてこともあります。

かといって英語を話せる友達と一緒に行くと、「自分よりデキる」人がいることでつい頼ってしまったり、その人の前で恥をかきたくない気持ちから逆に話せなくなったりする、そんな経験はないでしょうか。


「出来ない」から、「お互いさま」と「ありがとう」

みんなが国籍が違い、片言の英語や日本語で話す空間では、完璧でなくていい、間違ってもいい、が基準になり、そしてそこに「お互いさま」の空気が生まれます。

「出来ない」ことをさらけ出していいからこそむしろお互いに対して寛容になれる。


言語に限らず、チームビルディングやグループワークのアイスブレイクでもしばしばこうした「出来ない」でつながる効果を感じることがあります。
通常、ワークショップやディスカッションをする時、そのグループの中で「自分はこれができます」と強みをアピールする方が多いと思いますが、最初にあえて「自分の欠点を出し合いましょう」とか「苦手なことをまず共有しましょう」という風にすると、心理的安全性が高まり、みんながリラックスして話せるようになることがあります。

「出来る」というポジティブな方が一見、チームの空気を良くするようにも思えます。しかし、初対面や即席のチームだったりするとつい背伸びしてしまったり、自分をよく見せようとして、「みんなが出来る」「みんなすごい」というプレッシャーの中で息苦しくなってしまったりする。

仕事でもそうですが、完璧さや有能であることが求められすぎると「失敗できない」という空気が強くなり、ストレスフルで信頼感が希薄になって相互に監視し合うようなギスギスした空気になってしまったりする。「出来ない」をいうことはこうした息苦しさに空気穴が出来て、他者に対する寛容性が生まれるわけです。


そしてお互いの「出来ない」は、助け合いの機会も増やします。

例えば、相手が一生懸命日本語で話しているけどどうも伝わらなくて苦労していたら、こちらから日本語でできるだけ助け舟を出したり、英語に切り替えたりして助け合うことができますよね。「出来ない」があるから自然にサポートし合う関係が生まれる。

「できない」は感謝のきっかけでもあるわけです。感謝のきっかけだと思えば、そうした弱点をお互いに隠すのではなく、出し合ったほうが感謝の総量が増えます
見知らぬ人同士でも、お互いの「出来ないこと」も共有すると早く打ち解けることができる気がしますし、仕事のプロジェクトなどでもほんとうにチームになるには、できない部分をちゃんと出せる方が深くつながれるのではないでしょうか。


「出来ない」の多様性

また、「出来ない」は多様性の面でも大事だと思います。

「真善美」もそうですが「理想的な状態」は基本的に個別性を超えて一つの方向を志向します。「良い子」やなんでもできる「優等生」は欠点は少ないかもしれませんが、その人らしさの面白みはなく、少し息苦しいものになったりします。

「良さ」の「普遍性universal=一つに-向かう」が、「多様性diverse=別々に-向かう」を失わせてしまうこともあるのです。


恋愛相談で「理想の相手は?」と聞くと「誠実な人」とか「優しい人」とかみんな同じような意見しか出てきませんが、「こんな人だけは嫌だ」というタイプを聞くと人それぞれちがう意見が出てきます。

なので、実は「出来る」以上に「出来ない」の方にその人らしさが出ると言えるかもしれません。もちろん、全く何も「出来ない」ままでは何もできませんが、誰もが完璧で流暢に英語を話せることを目指すほうがいいわけではありませんし、そうなるとかえってその人らしさが無くなってしまうこともあります(朴訥としていたり、間違った英語なんだけど妙に味や説得力がある、みたいなことってありますよね)

一般に、人は「できる」ことの中に価値を見出しがちです。スキルや強みは? と聞かれる ので、人は「できる」ことが「自分」だと思っています。しかし、「できる」こと、つまりス キルや能力とはあとから獲得可能なもの、つまり可塑性があって実は変えられるものです。
アート・シンキングが出発点にする「自分」はむしろ、どうしても変えることが「できない」部分のほうです。
「こうありたい」と思うものに、人はある程度なることができます。しかし、「理想」を思うとき、誰もが「おなじ」方向に向かってしまいます。トルストイの『アンナ・カレーニナ』に 「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」(岩 波文庫)という言葉がありますが、いびつな「自分」は実は「理想」とは真逆にあるのかもしれません。ほとんど変えられるのに、変えたくても変えられないもの。

拙著『ハウ・トゥ・アート・シンキング』より



「出来ない」というのはネガティブに捉えられることが多いですが、「出来ない」を排除しようとしすぎず、むしろ共有し合ったり「出来ない」でつながる。心理的安全性があり、お互いに寛容で、感謝し合え、それぞれが自分らしくいられるコミュニティのためには「出来ない」がひとつの鍵かもしれません。

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