肩書こそ、流動的であっていい。
「肩書」を複数持っている人として、このお題には強い親近感が湧きました。自分の今の肩書に至る経緯を振り返りながら、より広い社会的観点で、そしてジェンダーや教育の観点で「肩書」について考えてみました。結論から言うと、「肩書きは複数持たなければいけないなんてことはない。ただ、誰でも肩書きを複数持つことはできる」。
今の肩書に至るまで
わたしのCOMEMOでの肩書きは「アーティストPR/音楽メディアライター」になっていますが、実はどちらも本業でありませんし、肩書きに関してはあまり執着がありません。実際の本業は理系の研究職で、ネット上で公開している肩書きとはものすごくかけ離れています。アーティストのPRにまつわる仕事をしたり、音楽メディアにライターとして寄稿しているのは事実ですが、やっている作業としてはプロジェクト企画や楽曲のディレクション、翻訳からアカウント運営、キュレーションやコンサルティング、ネットワーキングや通訳など、一言でまとめるのが非常に難しいくらい様々です。ライターとしても、メディアから受けた依頼のトピックで執筆するのではなく、ほとんどの場合は編集者と相談しながら自由に内容を決めたり、独自の視点でトピックを再構築して執筆しています。前からわたしを知っている人はご存知ですが、自分が持っているノウハウやスキルを知人やその知人に提供しているうちにそれがより大きな仕事に結びついていきました。なので、現在使っている「肩書き」は、自分を知らない人に仕事内容を紹介するのに最もわかりやすい「スキルや得意分野の紹介」に過ぎません。
自分はライターやエージェントが本業ではないし、学生の頃にレーベルでコンサルタントとして雇われていたのも、前例がない中で異例の対応をしていただいた結果でした。そして、自分が提供できるスキルに対して需要を持った、相性の相手のみと仕事の関係を結ぶことをポリシーに続けてきました。本屋に寄ってみれば、「好きなことを仕事にする」というようなタイトルの本がいくつも並んでいますが、個人的には「好きなこと」を本業にしたら、それがそのうち「好きなこと」ではなくなってしまうリスクがずっと不安でした。だからこそ、好きな人と好きなことをして、その結果としてPRや執筆、翻訳がフリーランスの仕事になっているのはとっても幸運なことだと思っています。
肩書きの必要性を考える
「肩書」とはそもそも何か?「職業」や「役職」だけではないと私は思います。今自分が仕事にしていること、スキルを持っているもの、好きなもの、興味のあるもの、挑戦してみたいものなど、全て別の「肩書き」になり得る。なぜなら人間は肩書きによって定義されるのではなく、むしろ自分という個性を肩書きに落とし込むから。自分の肩書きによって縛られることほど、本末転倒なものはない。資格が必要な仕事でない限りは、現代では誰でも自由に肩書きを名乗ることが可能だし、例えば音楽をやっている人は誰でもミュージシャンを名乗ってもいい。ミュージシャンが会社員だっていいし、会社員がミュージシャンだっていい。「お金を稼ぐこと」だけが仕事じゃないし、肩書きじゃない。
もちろん、自分の個性やスキルを誰かに伝えるためにわかりやすくまとめておくことは役に立ちます。「エレベーターピッチ」とはまさにそのことで、ネットワーキングの場には便利であり必須です。
一方で、肩書きだけで自分を判断されたくないと思うのは自然なことだし、同時に他人を肩書きだけで判断することはできない。その「肩書きで自分と他人を決めつける」という不健康ななカルチャーが、多様性を当たり前に受容できるインターネット世代の間で廃れていくことに期待しています。
複数の仕事や副業を持つ必要はないと思う。それ以前に、副業をしていたり、仕事外での趣味を持っていたり、一つの仕事に人生の全てを捧げていること以外の人生の生き方に対するスティグマがなくなることが社会の課題として存在しています。複数の趣味や副業があることはその人がたくさんの好奇心と独学の力と忍耐力やクリエイティビティを表すとも捉えられるけれど、現在の日本社会では「忠誠心がない」「だらしない」と悪い目で見られることの方が一般的です。教員が副業をしていたり、投資をしていることが処罰に値するのが良い一例です。
「普通」という呪縛
日本では、高校の時から、そしてさらに早い場合は中学校から「理系・文系」で履修科目が別れ、大学受験時にすでに志望の学部を選択しなければならない場合が一般的です。一方、アメリカの大学では入学してから2、3年は専門科目とともに一般教養の科目を履修してから、学部を選択する場合が多いです。在学中に学部も変更する人も少なくありません。
また、日本では大学3年生の時に就職活動をし、4年生の時にはすでに就職先が決まっていることが「一般的」ですが、アメリカではトップ大学でも卒業後に進路が決まっていないことは決して珍しくないし、日本のような「新卒」制度がありません。インターンシップや就職活動を独自で行う必要があり、ガイダンスが少なくてわかりづらいことは確かですが、「王道ルート」がない分、他人と比べても不毛であるという空気感が強い。これは大人になっても同じで、誰がどこに就職していようと、あまり気にしないし、そもそもそれぞれの人生やストーリーが全く異なる以上、同じ尺度で優劣を図ることもできない。「普通」という規範が存在しないため、個人の自由は高いです。
義務教育の段階で「理系・文系」が分けられ、大学生になれば「女子大生」「ハイスペ高学歴」などとレッテルをお互いに張り合い、社会人になればその肩書きは「会社員」「サラリーマン」という大きな集合体の無個性な一部に変換されていってしまう。日本社会では「普通」であることを求められると同時に、最近のSNSの普及や新自由主義的な風潮で「個性的なスキル」も求められ始めているという矛盾も存在します。社会になじみながらも、どこか「特別」なものが無ければいけないというプレッシャーを感じるのは、小学校受験をする子供も就職活動をする大人も同じ。
職業や就職先、ましてや副業の数などで多面的な人間の本質的な人間性を測ることは不可能です。常に学び、変化し、成長することを目標とするのならば、自分を表現する「肩書き」も流動的であってもいいのではないでしょうか。複数の拠り所や多数のスキルを持っていると自負できるのは、自信にもつながります。「普通の正社員」「日経の大企業」という、旧来的な価値観では「スタンダード」と思われていたようなポジションが決して安泰だとは限らない現代において、自分ではないより大きな組織にアイデンティティの重きを置くことは、自尊心の欠如にもつながりかねません。
そんな自己のアイデンティティや自尊心を保つためにも、応募するポジションに合わせて経歴書や履歴書の内容を少し変えるのと同じように、時と場合に合わせて肩書きやを変えることが大切なのではないかと思います。本体の人間の本質は変わらないけれど、環境に応じて提供できるもののパッケージングを変えることで、新たな出会いにも繋り、「自己」の捉え方が広がるのです。
ワークライフバランスを妨げているもの
「Z世代的価値観」の一つに、旧来的な働き方に違和感を抱き、企業やフリーランスに抵抗がないことが特徴として挙げられます。一つの統計では、Z世代の41%が企業家になる予定だということが示されています。
この働き方の変化は、日本でも話題の「ワークライフバランス」に大きくつながってきます。会社で上司や雇用主との上下関係に縛られることなく、独自のルールで働くことをSNS世代の若者が希望するのは、高性能のパーソナライゼーションが中心となっている生活を考えれば自然なこと。
仕事と私生活だけでなく、趣味、副業、家族、ライフスタイル、全てのバランスを総合して「ワークライフバランス」と呼ぶ場合に、「肩書き」はどう作用するのだろうか?
今までの男性中心の社会では、人生=仕事が当たり前とされてきました。しかし、見えないところでは女性が家事や育児を担わされており、「家族」という物体はあっても、男性が「家族」という責任を担わなくてもよかったため、その苦労は可視化されなかっただけで、当然存在していました。その見えない苦労が過小評価されていたため、女性の社会進出に伴いキャリアを持った女性にもその役割は押し付けられると同時に、男性の理解が追いついていないのが現状だ。育児などの苦労は「隠さなければいけないもの」というスティグマによって見えない場所に追いやられ、その悪循環が続くことで個々のストーリーが表に出ることが少ないことが問題でした。「肩書き」もまさに、そのマスキュリニティ中心社会においては「権威」を示すものとして使われてきました。
肩書きは、役職や職業に限られる必要はない。それこそ、カウンターとしての「イクメン」や「リケジョ」が一時期もてはやされたが、その本質的なジェンダーの不平等に再度着目することが求められている。その上で、社会的なハンデに縛られず、偏見に影響されない「自由な肩書き」を使えるようになることを想像してみたい。自由に変化する肩書き、そして自由に、かつ気楽に使える肩書き。その流動性こそが縛りではなく、成長を促すものなのではないでしょうか。
「肩書きは複数持たなければいけないなんてことはない。ただ、誰でも肩書きを複数持つことはできる」。自分もまだ知らない個性に出会ったり、学ぶことで成長した自分に出会うことは何歳からでもできる。肩書きにこそ、そんな可能性の余白を持たせたい。