見出し画像

あなたはだれと食べますか?

イタリアの地元レストランのランチは「13時半から」が多いが、なぜか。イタリアの小・中学校の多くは午前中で授業が終わる。祖父母が子どもを迎えにいき、両親は仕事場から家に帰ってきて、家族みんなでランチを食べる。なぜそんなことをしているの?と訊ねると、「家族だから、一緒に食事するのはあたり前じゃないか」と、イタリアの友人。

日本の朝ごはん。子どもに「朝ごはん、誰と食べた?」と問うと、“子どもだけで食べる”が3割、“ひとりで食べる”が3割と、“大人が不在の朝食”が6割。誰かと一緒に語りながら食べるという時間が、ただ食べるだけという時間になった。それを変だと思わない。

英語のcompanyを日本語では会社と訳すが、語源のラテン語companionは、ともに(com)パン(panis)を食べること(ion)で、行動をともにする仲間を意味する言葉だった。日本の会社=companyでは人・情報交換やコミュニケーションやアイデアを生み出していた「社員食堂」が減り、事務所のデスクや公園のベンチや車のなかで、一人でパラソル弁当やコンビニパンで昼食を済ます人が増えている。昼の休憩時間は決して昼食を摂るための時間だけではないはずだが、それをおかしいとは思わない。

戦後の都市への歴史的な人口移動は、「標準的」家族を6人から4人、あっという間に3人家族となり、2人そして1人単身者が圧倒的に増えた社会となり、「標準的家族」という基準がそもそも意味を持たなくなった。このようにたった3世代、70年間で家族のカタチを変えたが、食のカタチも大きく変えた。

家のなかの食の風景。まるい卓袱台で家族団欒の姿からお爺さん・お婆さんがいなくなり、4人のテーブルからお父さんがいなくなり、ついには子どもひとり、大人ひとりの食卓となり、食卓すらない家も増え、食卓に並ぶ品目が減り、パン食となって食器も減る。レストランのレイアウトも変わった。ファミリー席のウエイトが減って、一人の席が増えた。そしてスマホが増えて、食卓での会話量が減った。

外食店はこの変化にどう対応してきたのか。ティラミス、もつ鍋、ナタ・デ・ココ、パンナコッタ、発泡酒、ベルギーワッフル、マヨラー、生チョコ、コンビニスイーツ、スムージー、熟成肉、ロールケーキ、スパイスカレー、サラダチキン、パクチー、タピオカ…と毎年毎年ブームとなる食がでてくる。次から次へと「ブーム」が生まれては、あっという間に消える。“そんなのあったね”の連続となる。

とにかく安く、とにかく早く、とにかく綺麗で、とにかくインスタ映え、とにかく目立つこと、他にないこと、派手なパフォーマンスが人気となる。世界で話題になっているものが日本で食べられる。一年中いつも変わらない、同じものが食べられる。こうして食卓から、「地元・地域」が消え、「季節・旬」が消えた。美味しさは二の次となり、とにかく話題になっているもの、刺激的なものを追い求め、人の美味しさの感覚が鈍っていく。料理へのニーズは「食べる」から、「撮るもの、見せるもの」に変わっていく。

外食スタイルも変わる。新鮮で美味しい食材を段取りするために、早朝の卸市場にいく料理人が減った。お店の営業は夜が遅いので、 朝が早いのは大変、できるだけ楽をしたい。早朝から深夜の労働ではスタッフが集まらない。昔の料理人の育成方法では一人前になるのに時間がかかり、若い者は待ってくれない。できるだけ面倒くさいことをしたくない、旬ごとに旬の食材ごとに組みあわせ、混じりあわせ、手数をかけてお客さまごとの本物の味をつくってお客さまに喜んでもらおうとする料理人が減った。だから、料理は美味しくなくなった。

料理人の変化だけではない。農業・漁業生産者と卸市場と、食品会社と料理店・料理人とお客さまが、つながらなくなった。それぞれがバラバラで、全体が融合しない、統合しない。食材の物流は生産者からお客さまへと流れるが、プロセス間のコミュニケーションが不足するので、お互いのことが分からなくなる。だからプロセスごとに知恵、経験、アイデアを付け加え、各プロセスをつないで全体で価値を高めていこうという「食のバリューチェーン」が崩れていく。

料理は絵画や彫刻などの芸術作品のように残らない。たとえば150年前の江戸時代に、どんな料理が出されたのかという献立は文書で残っていても、その料理がどんな味だったかは現代の私たちには分からない。現代人はそれを想像するしかないが、料理人が旬の地域の食材のよさを引きだし、組合せ、活かすために、なにをしたらいいのかを考え調理しつづけ、食べる人が料理人の想いを理解しなければ、料理の文化は廃れていく。

令和時代の食は、どうなるのか。ネットワーク、バーチャル、Web、AI時代だから、リアルが大切だといわれるが、“現場、現物、現実が単純にすごい”という時代ではない。食の本質を踏まえ、これまでの経験と新たな流れをどう融合していくかが求められる。

食とはなにか―「食は家族が集まる場であり時間であり、地域の人と人がつながる場であり時間である」が本質。食を通じて家族の人、地域の人が喜ばられる姿を想像して、食のバリューチェーンの「指揮者」となって、地域を美食都市に磨きあげる拠点になることではないだろうか。一軒の料理店がトリガーとなって、魅力的な都市に変えた事例は日本にも世界にいっぱいある。食で、まちは変えるられるのか-YES。令和時代の外食店の役割は大きい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?