世界そのもののサブスク化(あるいは所有という「長い夢」の終焉)
「月額定額制カメラレンタルサービス」という単語を目にした瞬間、一瞬「?」ってなりませんか。これはとある企業が、三年前に、自分のところのサービスをユーザーに理解してもらうために、なんとか事業形態を伝えようとして考えた文言だったそうです。うん、通じない。
ところが、この単語をこんなふうに翻訳してみましょう。「カメラサブスクサービス」。ちょっとわかりやすくなりましたよね。そう、3年前と今とでは、ある単語に対する我々の認知がずいぶん変わりました。「サブスク」です。
最初にあげた例は、カメラブ株式会社が立ち上げたGooPassというサービスで、定額でお金を払えば、いろんなカメラ機材を自由に借りることができるサービスを現在展開している会社です。サブスクリプションサービスなので、月額固定のお金を払い続ければ、機材を返す必要はありません。機材の返却日が決まっているこれまでの「機材レンタル」とは違う事業形態と言えます。
このGooPassと、僕が担当している関西大学社会学部メディア専攻の「フォトグラフィ実習」とで現在コラボをしております。半年前まで素人だった学生たちが、最新機材に触れて凄まじい成果を出しつつあるんですが、このコラボ、単に「学生に最新機材を体験させる」というのが目的ではないんですね。社会学部メディア専攻でやるからには、カメラをメディアとして捉えてほしい。そして今まさに、カメラが、DX(デジタルトランスフォーメーション)を通じて、一層「メディア化」している中で、単に「撮る機械」であったカメラが、徐々にそのメディア的境界線を拡張している最中にあるんじゃないのかということを、学生たちに意識してもらいたい、そんなこと考えてのコラボなんです。さらにその延長上にあるのが、「サブスク」という、この新しい商圏自体への目配せです。ただ、このことは学生に考えさせる前に、自分でも考えなきゃいけないなと思ってたんですが、考えれば考えるほど、これは単に「ようやく普及してきた目新しいサービス」という小さな話ではないんじゃないかと思い始めました。そして突き詰めると、こんな結論になりました。
所有することを動力として駆動してきた資本主義の極点に生まれたサブスクサービスは、それ自体が資本の原理を解体する最初の兆候なのかもしれない。
これが今日の結論です。それはいわば、「世界そのもののサブスク化」であり、僕ら人類がおそらく農耕が始まったあたりからずっとその中にいて、資本主義の発明とともに至上命題と化した「所有という長い夢」が、ついに終わりを迎える可能性がある。そんなことを感じたわけです。以下はその詳細。
(1)サブスクサービスが多様なジャンルに拡大しつつある
ちょうど日経にこんな記事が出ていました。
記事の中でも様々な形態のサブスクサービスが現在市場に現れていることが確認できます。皆さんどれかは入っているだろうことが予想されるネトフリやアマゾンプライムのような動画配信サービスなどはもう定番。話題になったトヨタのKintoや、高級ブランドバッグのレンタルサービスなんてのも出てます!色々なサブスクサービスの紹介とともに、記事の中のこの指摘が、サブスクサービスが伸びる理由を簡潔に提示しています。
消費者にとっての魅力の一つは初期費用を抑えられること。パナソニックは7月、最高級炊飯器を月3980円で利用できるサービスを始めた。毎月、1.8キログラムの銘柄米が自宅に届き食べ比べができる。提供する炊飯器の実勢価格は10万円を超え、手を出しづらいと感じる人は多い。
炊飯器のレンタル!?いや、それは置いときましょう。問題はここ、「初期費用を抑えられること」。これがまさに、高級品とサブスクサービスが絶妙にマッチするポイントです。
車に至っては、ある程度の車を買いたいとなると、最低でも200万程度のお金が必要になってきますが、月4万円程度で借りられるとなると、車をサブスクするのは確かにありです。高級ブランドのバッグもまた、何十万円もするものを何個も買うことを考えたら、借りちゃう方が早いような気がします。そしてカメラもまた、初期投資が結構きついジャンルの一つです。これはよく話題になる話なんですが、最前線で活躍するフォトグラファーの多くが、やはり30代以降なんですね。その理由は、20代だと自由にできるお金が少なくて、その経済力の差がモロに成果に直結してしまうからなんです。
(2)モノの所有には限界がある
というわけで、カメラのサブスクサービスが出て来るのも、ある意味では必然的な流れだったのかもしれません。基本的に所得が増えていない日本の経済構造においては、今や車はもちろん、カメラやバッグも「所有」するのはきつい。ただ、それでも人は、パンのみにて生きるわけではないんですね。僕ら人間は手持ちのお金が少なくとも、何か自分の想像力や感性を刺激してくれるような体験を求めて生きる存在なんです。「所有」がもたらす快楽は諦められても、新しい「モノ」との出会いが引き出すであろう「経験」、すなわち「コト」の体験を求める気持ちは止むことがありません。その知的好奇心こそが、人間を発展させて来た原動力なんですから。
このような人間の本性こそが、単に経済的観点からだけではなく、サブスクサービスが劇的に進展していく契機になるわけです。「所有」では、経験のカテゴリーや量が、必然的に限られる。買える車なんてせいぜい一人1台というところでしょうし、カバンやカメラも無限に買えるわけではない。必ず「所有」には限界がある。
その一方、サブスクサービスは初期投資が少なく、使う分だけのお金を月額で定額で払えば、気に入らない物品は返却して、また別の物品を使うことができる。原理上、このサイクルはほぼ無限に近い。「所有」では必然的に限られていた「経験の範囲」もまた、サブスクサービスにおいては無限に広がる。単純に「コトの体験」だけの側面を見れば、サブスクサービスの方が圧倒的に人間にとっては有利なはずなんです。
(3)DXとサブスク
こうした流れをさらに後ろから支える社会状況がもう一つあります。皆さんもある程度予想されていることでしょう、そう、DX(デジタルトランスフォーメーション)の流れですね。DXとサブスクは、相性がいいんです。
これは動画や音楽といった、サブスクサービスの普及の流れを見ればよくわかります。町の至る所にあったレンタルCD・DVDのお店が、サブスクサービスの進展とともに一気に街から消えました。それはもう、かつてTSUTAYAが街のあちこちにできたときに、小さなCD屋が潰れていくよりも早い速度で、圧倒的な規模感で。その理由はもちろん、音楽や動画というメディアが、いち早くデジタル化していて、「モノ」である必要が全くなくなっていたからですね。いちいち実店舗にいって、レンタル期日に怯えながら何十本も映画を見ていた時代なんて、もはや今の子どもたちには「古いアニメに出てくる黒電話」以上に、通じない経験でしょう。今の10代の子どもたちは、おそらくお父さんが契約しているNETFLIXや、お母さんが契約しているディスニープラスで、見たい映画やアニメを指一本の操作で見ることができる世界を「普通の世界」と認知しているはずです。それほどに動画と音楽は、DX化の流れを基盤にしたサブスクサービスと相性が良かった。
そしてそれが一巡したいま来ているのが、車やカバンや、そしてカメラということなんです。これらは、最終的には「モノ」であることをやめられない製品でありサービスです。その一方で、所有することが難しい「高級品」でもある。この、「モノの所有の難しさ」と「コトを経験することの楽しさ」のバランスが絶妙に揺らいでいる製品に、DXとサブスクが展開する大きな間隙があったんですね。
例えばパッと頭に思いつくだけでも、「所有にかかる初期投資の膨大なコスト」、「メンテナンスの費用」、「保管場所の問題」、「気に入らなかった時の処分の難しさ」というような、「高価なモノを所有することにまつわるリスク」を、サブスクを提供するサービス側が全て引き受けるわけです。その一方で、顧客の我々が手放すのは、たった一つだけ。「この物品が自分のものであるという幻想」だけです。この手のサブスクサービスは、基本月額制なので、「レンタル」とは違って、お金を払い続ける限り物品は手元に残り続ける。単にその物品は「個々人に所有権がない」だけで、手元にはあり続けるんです。ほら、こんなふうに書くとメリットばかりじゃないですか。実際ほんとにそう思うんですよね。そしてそんなふうに考えていると、今日の最初に書いたことが頭に思い浮かんだんです。
そろそろ、「モノを所有する」っていう、資本主義のもたらす根源的な快楽であり権利は、無くなるんじゃないかって。
(4)ビックリマンシールの夢と、レアガチャのデータ
コロナ禍で実感したことがあります。いつの世でも言われて来たことなんですが、日常はある日突然終わるんですよね。そして終わった日常がそのままの形で戻ることはありえない。だから僕らは、流動的に変化していく社会構造に柔軟に対応していかなければならない。21世紀はおそらく、そういう世紀になるはずです。気温は上昇し、数年に一度は感染症が世界を席巻し、必ず4年に一度は開催されると思っていたオリンピックやワールドカップのようなスポーツさえも延期されたり、場合によっては中止にされたりというような。そんな不安定な社会にあっては、仕事の形態も一層流動的になるでしょう。僕のような機材が結構必要なクリエイターなどは、その社会構造の変化にも柔軟に対応していかなければならないんですが、その度ごとに膨大な初期投資で、機材の一切合切を購入しながら、新しい局面に備えるというこれまでの生き方は、いずれ限界点がくる。
あるいはクリエイターのみならず、普通に生きることさえ、巨大な変化を被る時代になるはずです。先日の熱海の土石流のように、あるいはもっと遡れば東日本大震災や阪神淡路大震災、毎年のように起こる局地的集中豪雨などの自然災害によって、自分の住んでいる場所さえも一瞬で奪われかねない、そんな世紀になることが予想されます。「モノを持つことのリスク」は、飛躍的に今後高まっていくことになるでしょう。
そのような傾向がさらに高まれば、今後、生活にどうしても必要な基礎的な物品を除いて、すべてがサブスク的な形で生活基盤が形成される未来が来るかもしれません。というか、そのほうがよっぽど理にかなってるんです。リスクは巨大な組織にお任せして、僕らは自分自身と家族や友達の命や生活を守り育てることに専念する。人生を彩る物品自体は外部において、内部の経験が奪われないように気を配る。モノを持たず、「コトの経験」によって人生や仕事が形成されていくような、そういう時代です。
このように書くと、まるで人生が、テレビドラマのセットのような味気なさを感じる層が一定いらっしゃるかもしれません。他ならぬ僕がそうで、僕らはそれほどまでに「所有することの喜び」にどっぷり使って生きてきた世代です。なにせ我々の親は、高度経済成長時代を生き抜き、バブルの狂乱を経験した世代。資本主義の最も美味しい果実を口いっぱいに味わった世代の、その子どもが僕らなんです。骨の髄まで「モノを持つことの喜び」が叩き込まれている。そんな40代以上の皆さんは、「ビックリマンシール」や「キン肉マン消しゴム」を必死になって集めて、それが揃った時の喜びを覚えているのではないでしょうか。これが僕らの「所有欲」の、最初の、そして究極の表れだと思ってます。シール欲しさにビックリマンチョコを大量に買って、食べきれずに捨てたあの日の罪深さこそが、おそらくは僕らの強欲の源泉であり、そして矛盾の原点でもあるのでしょう。
でもいまの子どもたちは、例えば原神やグラブルのレアリティの高いキャラをゲットすることで、自己の源泉の所有体験を始めます。一見すると、その所有経験は、単にデジタルに変わっただけに見えるかもしれないけれど、ビックリマンシールやキン肉マン消しゴムと根源的にそれらが違うのは、原神やグラブルのレアキャラは、デジタルデータであると言うこと。突き詰めれれば、この世界に存在していない、一種の「夢」であること。それは夢だけに一瞬にして消える可能性を孕み、本質的にはレアリティの低いキャラも高いキャラも、単なるデジタルの数字の配列違いに過ぎないわけです。いまの若者たちの所有の源泉は、そのような「交換可能性」を基盤に形作られるんです。
その世代にとっては、もはや現実のモノに拘泥すること自体がナンセンスであり、彼らにとっては「生活全体をサブスクする世界」が、もはや自然になっていくのかもしれません。そういう経験と認知の基盤を持つ、今の20歳以下の子どもたちが30代になった時、40代になった時、世界そのものさえもサブスクするような新しい世紀を切り開くのかもしれませんね。
それは資本主義の刷新をも含み込んだ新しい世界認知をもたらすものになるのか、それとも全てが巨大資本によって所有/管理される資本共産主義とも言える悪夢になるのか、僕にはまだ見えてこないんですが、そういう世界へと徐々に向かっているように感じております。
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