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アイデアは「ひらめき」ではない

アイデア=「頭の中にある理想の姿」

ドイツの自動車メーカーで広告の担当をしていたとき、一緒に仕事をする外部のパートナーはアメリカの広告代理店でした。国際色豊かなメンバーが英語でやりとりをするわけですが、たまに話が噛み合わないことがあります。言葉が解らないから、ではありません。解らない言葉は聞いたり調べたりすれば良いわけですし、そのようなビジネスの現場では、みんな誤解を避けて難しい物言いはしないものです。

問題は、誰もが知っている言葉を、それぞれが違う意味でとらえている場合です。例えば「メディア」といったとき、ある人は「テレビの15秒CM」をイメージし、ある人は「テレビそのもの」をイメージしたりします。このようなことは日本人同士でもたまに起こりますが、次の「アイデア」をめぐる勘違いには、それまで日本人同士では遭遇したことがありませんでした。

ことは私が新車の商品説明をし、広告展開について今後の進め方を議論しているときに起こりました。広告代理店はまず「アイデア」を提案すると言います。最初に全体的な方針を整理したかった私は、アイデアより「全体像」の議論がしたいとそれを拒否し、会議室は重たい空気に包まれました。結局その場は私が折れて、後日「アイデア」の提案をもらうのですが、それはいい意味で私の予想を裏切るものでした。彼らの言うアイデアとは、広告キャンペーン全体のコアとなる考え方(概念)を整理したものだったのです。

”idea”をコリンズ英英辞典で引くと、”his ideas about democracy” (民主主義に関する彼のアイデア)などという例文が出てきます。この「アイデア」を、日本風に「ひらめき」と置き換えてみると、よく意味が通らないでしょう。ここでいうアイデアとは、「頭の中にある(現実世界にはまだ存在しない)理想の姿」という意味なのです。似たような、日本語としても使われる英語でいうと、「アイデア」より「コンセプト」に近いかもしれません。「概念」です。

「イデア」は概念の国に住む

同じ「概念」でもアイデアとコンセプトの違いは何なのか? というと、アイデアには「現実世界にはない『理想の』姿」というニュアンスが含まれていることだと理解しています。「プラトニック・ラブ」という言葉を紐解いていくと、その感覚を掴むことができます。「プラトニック」とは「プラトン的な」という意味です。あの哲学者のプラトンです。プラトン的な愛がなぜ「純粋な愛」なのか? というのは、彼が説いた「イデア論」と関係があります。

プラトンは何事にもその大元があると考えました。例えば、この世には美しいものが沢山ありますが、そうした現実世界の美は、大元にある純粋で理想的な美を「分けて持っている」というのです。この大元にある美こそが「美のイデア」です。現実世界にある美は、美のイデアの影のようなものに過ぎません。同じことが現実世界の「愛」と「愛のイデア」にも当てはまります。「プラトン的な愛」とは、この「愛のイデア」のような、現実世界にはない愛の理想の姿のことを言っているわけです。

このような考え方は「二元論的」であると言われます。二元論とは、世界を2つに分けて考える、ということです。この場合は「現実の世界」と「イデア(概念)の世界」です。ギリシア文化は西洋文化の源流なので、この二元論的な考え方は、その後の西洋の歴史では色々なところに顔をだします。「物質の世界」と「精神の世界」、「人間の世界」と「量子の世界」などなど。

プラトンの数百年後に誕生したキリスト教も、世界を二元論的にとらえていると言われます。不完全な「現実の世界」があり、理想的な「神の国」がある、といった具合です。こうした考え方はともすれば現実世界を否定することになるので、ニーチェなどそれが不満な人は、プラトンにもキリスト教にも批判的でした。裏を返せば、プラトンの二元論はそれだけ社会に染み渡っていた、ということです。

英語の無冠詞は「アイデアのことです」フラグ

このプラトン的な「概念の世界」と「実際の世界」の対比は、英語をはじめとした西洋の言葉では、文法の中にも組み込まれています。「無冠詞(zero article)」です。ネイティブスピーカーが解説するこちらの動画では、名詞が無冠詞になるパターンの一つとして、abstract idea(抽象的な概念)のことを言っているケースを挙げています。その他は固有名詞や曜日の場合などです。

例えば「猫を飼っている」なら“I have a cat”ですが、「猫が好き」なら“I love cat”と無冠詞になります。前者は現実世界の自分の猫の話をしているのに対して、後者は「猫というもの(概念)」の話をしています。同じ猫という可算名詞(数えられる名詞)でも、冠詞をつけたりつけなかったりすることで、現実世界の猫と概念の世界の猫を区別しているのです。

英語を始めとした西洋の言葉の多くには、このように冠詞という仕組みを通じて、「現実の世界」と「イデア(概念)の世界」の二元論があらかじめ組み込まれています。今は現実世界のモードだよ、今は概念の世界のモードだよ、という切り替えができるのです。思想的にも宗教的にも言語的にも、こうした二元論に馴染みのある西洋人は、現実世界には存在しない「概念」の話をするのに、日本人より圧倒的に馴染みがあるといえるでしょう。

日本企業と外資系企業の両方で働いた経験に照らし合わせると、日本のビジネスパーソンは概念的な話を嫌い、具体例・事例をもって話すことを好む傾向があるように感じます。講演をする際は必ず「事例を話してください」と主催者から依頼されます。抽象(アブストラクト)というのは、本来論文などの大づかみの骨子という意味ですが、日本のビジネスで「抽象的」というと、具体的ではなく理解しづらい、という悪い意味となってしまいます。

弊害1:具体の横串が通しづらい

こうした傾向には「議論が長引かない」「計画を実行に移しやすい」「計画の実行がスムーズ」など、良い面も沢山あります。一方で悪い面があることも否定できません。一つの解りやすい弊害が、異なる具体の間で横串が通しづらい、ということです。

冒頭で例に出した広告制作のシーンでいえば、はじめにアイデア(コンセプト)を議論して、その後それをテレビ・SNS・店頭施策などで具体化していく、というのが一つの進め方です。例えばキットカット(ネスレ社)の「受験生応援キャンペーン」なら、「受験生を応援したい、という気持ちを持った人が、キットカットを通じてその気持を伝えられるようにする→受験生にもその家族にもキットカットを買ってもらえる」というのがキャンペーンの「アイデア」でしょう。

これは「コンセプト」ともいえますが、「頭の中にある理想の姿」という意味では「アイデア(イデア)」により近く、広告の世界では「ビック・アイデア」などと呼ばれます。ではそのアイデアを、テレビCMにするならどうするべきでしょうか。SNS施策で展開するには? 店頭の販促施策なら? といった具合に、具体を議論するのはその次のステップとなります。そうすることで、テレビCM・SNS施策・店頭施策と具体が異なっても、その裏に一本アイデアの筋を通すことができ、結果キャンペーン全体を一貫性のあるものにできるのです。

外資系のネスレは例外なのかもしれませんが、この進め方は日本ではあまり人気がありません。どんなテレビCMになるの? どんなSNS施策になるの? という具体的なイメージがないと議論を進め辛いと感じる人が多いのでしょう。しかし、そうしてテレビCMやSNS施策の具体から議論を始めると、それぞれその分野に強い人が別々に企画を考えたりするので、全体として横串が通っていないキャンペーンなってしまうことがあるのです。

弊害2:存在しないもののことを議論しづらい

横串問題は横串問題で深刻なのですが、日本のビジネスにとってより致命的なのはこの「弊害2」です。例えば「ビジネスモデル」はアイデアの一種です。「頭の中にある(現実世界にはまだない)理想の姿」だからです。トヨタは日本一の時価総額を誇りますが、世界で見るとベスト50の当落を行ったりきたりしています。それでは、と世界の時価総額上位を見ると、アップル、マイクロソフト、アルファベット(グーグル)、アマゾンなどといった企業が名前を連ねています。こうした企業の共通点、そして日本の上位企業との一番の違いは、自分たちで新しいビジネスモデルを生み出しているということでしょう。 

アップルは革新的な新製品を生み出したのみならず、iTunes(Apple Music)やapp storeという新しいビジネスの仕組みを発明しました。アプリの世界でそれをやったのがアップルなら、PCの世界での元祖はマイクロソフトです。グーグルは検索広告を生み出し、アマゾンはクラウドサーバーという新しいビジネスを創造しました。それに対して、日本の時価総額上位は、「メーカー」や「銀行」など、基本的にはすでに確立されたビジネスモデルを高度に洗練させた企業たちです。

ビジネスモデルを創造するのが難しい理由はそれだけではないはずですが、日本のビジネスパーソンが「アイデア論」を嫌う傾向がこれを後押ししているのは確かでしょう。まだこの世に存在しないものに対して、具体例は? 事例は? と聞かれても絶望するしかありません。さすがに新しいビジネスモデルの話ではそうは聞かれない、にしても、それまで具体例・事例思考で鍛えられた頭は、提案するにせよ判断するにせよ、「アイデア」を扱うに慣れていないことは明らかです。

「民主主義」「資本主義」「基本的人権」なども、みな最初は「アイデア」でした。「頭の中にある(実際にはない)理想の姿」として提案され、議論され、果ては権力と暴力の実態を握る体制を倒してまでそれを実現してきたのが西洋社会です。アイデア論を嫌わないどころか、むしろ「アイデア(イデア)>リアリティー」が基本なのです。新しいビジネスモデルを巡る戦いで、そうしたバックグラウンドを持つ人たちとやりあうのは、いかにも分が悪いと言わざるをえません。

提案:イノベーションを生み出すには「アイデア」を大事にしよう

とはいっても、「分が悪い」などとばかり言っていては日本が沈没してしまいます。そこで提案です。日本のビジネスにおいて、もっと「アイデア」を大事にしませんか? ここで言うアイデアとは、もちろん発想力や「ひらめき」のことではありません「頭の中にある(現実世界にはまだない)理想の姿」です。具体例や事例はさておき、概念について議論することです

抽象的な、概念的な議論を、具体性がないなどと退けず、むしろ奨励しませんか? さもなくば、日本から世界を変えるビジネスモデルを生み出すことは困難です。ましてや、生成系AIが全てを塗り替えようとしている昨今です。生成系AIに全てが塗り替えられる未来、というのは、まだ現実世界には存在していません。つまりはこれも「アイデア」なのです。アイデア(概念)の議論ができない、ということは、AIが全てを塗り替える未来に備えることができない、と同義であるとも言えます。

心がけはそれでできたとして、アイデア(概念)について考え、議論し、判断する力を養うにはどうすれば良いでしょうか。それには哲学などの「役に立たない」学問を嗜むのがおすすめです。「役に立たない」というのは、私が哲学に親しみを感じればこその自虐です。俗に言う「役に立たない」とは、現実世界で具体化できない、ということでしょう。

でも、見方を変えると、それは具体への逃げ道を潔く断っているとも言えます。哲学では、具体例や事例、「例え」にさえ逃げず、徹頭徹尾概念の世界で頭を巡らせることが求められます。そうした訓練を積むことで、アイデアについて考え、議論する力は確実に磨かれていきます。皆さんが「もっと具体的に説明してくれよ」と先輩に怒られるとき、さらに大先輩のプラトンならこういうのではないでしょうか。「具体例に逃げるのはやめさない」。そして「イデア(アイデア)を考えなさい」。

おわり

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マーケターのように生きろ: 「あなたが必要だ」と言われ続ける人の思考と行動

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<参考資料>
時価総額順位が示す日本の課題


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