原子力規制の問題ー「お上と下々」の構図が生む不健全性ー
私がいつももやもやする景色があります。事業者が規制者に対して申請書などを提出するとき、あるいは規制者が許可書のようなものを事業者に交付するとき。事業者が深々と頭を下げながら差し出す、あるいは押し頂きながら受け取るという風景がよく報道されますよね。
ほら、こんな感じ。(2013年の日経記事にあった画像を拝借しました)
規制に関わる方が威張っていてけしからん!という単純な話ではなく(そういう問題も往々にしてありますが)、事業者の方が、こうしたいわば「お上と下々」みたいな関係性に安心感を覚えてしまうことも問題であり、この関係性で「良い規制」ができるのだろうか、という懸念を持っています。
規制する側もされる側も、その技術のプロフェッショナルであり、両者が「イコールパートナー」として喧々諤々、丁々発止、切磋琢磨していただくことで、その技術が健全に利用できるのではないでしょうか。
パートナーという言い方は、癒着や馴れ合いを想起させ誤解を招くかもしれませんが、技術に関するプロフェッショナルとしてお互い敬意と尊敬を持ち、綿密なコミュニケーションをとるべきだと思うのです。
実はこの考え方は、米国の原子力規制委員会の活動原則にも謳われています。
米国の原子力規制委員会は、自立性、開放性、効率性、明瞭性、首尾一貫性という5つの原則を掲げており、そのなかの自立性の項目でこう述べています。
「最高レベルの倫理観と専門性以外の何ものも規制に影響をおよぼすべきではない。ただし、独立性は孤立を意味するものではない。許可取得者および利害関係のある市民から広く事実や意見を求める必要がある。公共の利益は多岐にわたり、互いに矛盾することもあるが、これを考慮しなければならない。全ての情報を客観的かつ公平に評価した上で最終決定を下し、理由を明記した上で文書化しなければならない。」
これ以外にも、米国のNRCの活動原則には学びが多く、日本の原子力規制委員会(NRA)と比較してみるとわが国の原子力規制について多くの疑問や懸念がわいてきますが、それはまた別途の機会に。
さて、わが国の規制、なかでも原子力規制における規制者と被規制者のコミュニケーションに問題があるのではないかという懸念。
以前書いた「原子力規制のあり方を考える」のコラムでも指摘しましたが、昨年4月に原子力規制委員会がテロ対策施設の完成が間に合わない原子力発電所について運転を認めない方針を明らかにした件も、本当に事業者は規制機関に対して工期の遅れの可能性を全く伝えてこなかったか、今でも私は疑問に思っています。
今まで多くの原子力施設を回り、そこで働く方々とお話した経験のある私としては、事業者としてはいつ「公式に」伝えるか悩むことはあっても、全く伝えなかったとは想定しづらいのです。今の規制機関と被規制者の関係を見ていて危惧されるのは、何でも規制機関にお伺いを立ててその判断を得ないと怖くて何もできないという状況に陥っていないかということであって、逆に勝手にずっと言わずにおくなんて言う勇気ある(?)事業者がいるとはとても思えません。
しかも、現場を訪問すれば必ず工期の進捗が話題になるはずで、規制委員会も事務局である規制庁も遅れを認識していなかったとすれば、どのようなコミュニケーションをとっていたのだろう?という疑問がわきます。
事業者の萎縮も問題ですし、迅速かつ効率的な審査を責務とする規制機関としての怠慢があったのではないか、検証が必要なのではないでしょうか。
また、今度は日本原子力発電がデータを書き換え、規制委員長が怒りのコメントをしたと報道されています。今日の日経新聞の社説も「原発を運転する資質を疑う」と全面的に事業者を非難しています。
確かにこれまでも原子力界隈ではデータ改ざんだの書き換えだのありましたから、「またか」そして「今でもなおか」とあきれた人も多いでしょう。当然です。私も最初報道を見たときには、「いい加減にせいや」と思いました。
でも本当にそうなのか?どうにも違和感がぬぐえず、同社がこうした対応を行った背景についてまとめた報告書(令和2年2月14日「敦賀発電所2号炉 敷地の地形,地質・地質構造 令和2年2月7日審査会合資料の作成における当社の考え方と今後の対応について」)がアップされていたので、それを読んでみました。
書き換えたと指摘されているのは「柱状図」というもの。柱状図とは、地盤調査や地質調査した内容を図にしたものです。日本原電は有識者会合で活断層の疑いがあると指摘されたK断層が最後に途切れたところから、炉心直下まで新たに10本のボーリング(穴を掘って調べること)をして、取り出したものを柱状図にしたわけです。
これを詳しく肉眼観察をして、さらには、薄いかけらを取って顕微鏡観察(公表資料では薄片観察と記載)した結果を、『記事』欄(コメント欄みたいなものといえばイメージ伝わりますでしょうか)に書き込んだわけですが
この記事についての扱いを巡って、認識に齟齬があったのだろうということが、この整理を見ると浮かび上がってきます。
日本原電の報告書から該当部分を下記に引用します。
・当社は,これまでのヒアリング提出資料については,変更箇所に黄枠を付けることで記載の変更箇所を明記してきたが,令和元年10月11日 の審査会合時における誤記やデータの追加をすべて更新して最新の形で資料を提出することとの趣旨のご発言に対して,変更箇所を明記していない最新版の資料を提出すればよいものと受け止めていた。
・なお,柱状図(令和2年2月7日 審査会合)の記事欄の記載の変更 は,令和2年2月7日 審査会合資料1で説明した断層岩区分の変更に伴うものであったため,個別の説明は行わなかった
日本原電側が「誤解」したという、令和元年10月11日の審査会合議事録も見てみました。
P25の上の方に「全ての更新を反映させた審査資料というものをまず改めて提出していただきたい」という審査官の発言があり、これを読むともし私が担当者だったら確かに悩むかもしれない、と思いました。「悩んだら、規制側と相談すればよいのに」と思いますが、そうしたことができない状況なのだとしたら、「変更箇所を明記していない、最新版の資料を提出すればよいものと受け止めていた」という日本原電の言い分は仕方ないとも思えます。
要は、日本原子力発電の側は、観察結果の評価は元データには含まれないと考え、薄片を観察した評価についても、最新のものだけ記載して古いのを消して出したところ、それは生データの書き換えだと取られたということのようです。
丸め過ぎの例えで誤解を生んだら申し訳ないのですが、先生から論文の修正を指示された学生が、修正履歴を全部残して提出したら、「読みづらいので次回から主要な部分以外は履歴を消して出せ」と言われた。で、素直に修正履歴を全部なじませて出したら、主要な変更はわかるようにしろと怒られた、みたいな印象です。
いずれにしても、この報告書や、昨年の議事録を自分で確認した正直な感想を言えば、大の大人がもうちょっとちゃんとコミュニケーションとれないか?ということ。規制者の側も、被規制者の側も。
日本原電側の報告書には、
・当社は,記載変更箇所の説明に関して,あらためて面談で確認を行うなど,意思疎通をしっかりと図るべきであった。また,審査資料の変更箇所については,明示的に説明すべきであった。
とあります。その通りです。
ただ、これは私の持論ですが、コミュニケーションの齟齬と言うのはどちらか一方にだけ責任があるというものではないと考えています。誤解した側、させた側、どちらも「自らにも反省すべきところがあった」と考える方が健全ではないでしょうか?それが日本は被規制者側の非とされ、報道もその論調一色です。
規制活動全般にそうですが、ここのところの原子力規制は特にその傾向が顕著な気がします。原子力規制にはこうしたコミュニケーションに齟齬があったと思われる事象が多すぎます。原子力事業者が特殊にコミュニケーション能力に欠けているのかもしれませんが、規制機関は本当に行政機関として問題が無いのか?これをいま、誰もチェックしていないのが現状ではないでしょうか。
規制を緩めろとかそういうことは一切言っていません。ただ、良い規制は、規制者だけでもできないのであり、よくコミュニケーションを取ってほしいと思っています。そうでなければ国民の便益が最大化されません。
本当はこうした規制活動について、国民の代表たる国会が適切に監視すべきなのではないでしょうか。規制委員会は政治からの独立性を担保された3条委員会ですが、国民のために規制活動を行っている、国会から付託された活動を行う組織である点は間違いないのですから。
規制側にも「規制の哲学」を、事業者側もお上のお墨付きを得るというマインドを脱して、健全な技術の利用の在り方を目指してほしいと思います。