職場における友情、自己実現、遊びをめぐって
35歳を過ぎ、体力の限界まで仕事と家事と育児に奔走するということが、情けないことにできなくなって、キャパシティを超えて体調をくずしてしまって半年ほどが経ちました。仕事はなんとかできているものの、3歳と5歳の家事育児はなかなかに辛くて、仕事と家事の両立にずっと悩んでいます。
そんななかで、苦悩するぼくの気分を軽くしてくれるのは友達の存在でした。ご飯を食べたり、ちょっと一緒に出かけたり、子連れで遊んだりするだけで、気持ちが軽くなるのを感じました。苦悩する自分の声を聞いてくれたり、逆に友達が見ている世間や生活の話を聞いたりするだけで、心の風通しが良くなっていくのを感じます。
持つべきものは友とは昔から言いますが、35歳を過ぎてあらためて友情は人生を豊かにするなぁと感じて、友情とは何かをぼんやりとかんがえていました。
また、風通しがよく心軽く共に良い仕事ができる職場においても、友情のようなものは重要な役割を果たすのではないかと、組織論とつなぎながらも友情を考えています。
そんな関心から、先日『友情を哲学する』という本を読んでいて、そのなかにマッキンタイアと言う人の友情論が紹介されていました。
マッキンタイアは以下のような友情観をもってます。
つまり、自主独立の人間観を批判し、そもそも他者にケアされ、依存して生まれてくる、依存を肯定的にとらえた人間観を提唱しているのです。
また、興味深いのは「開花」という概念です。友達からのケアによって人間の中に潜在する善が発揮されるとは、どういうことなのでしょうか。
これは、先日CULTIBASE labのイベントで登壇者の西村歩さんが言っていた「自己実現とは、潜在的な可能性が発揮された状態である」という話とつながる話だと感じました。
西村さんは、マズローの自己実現理論を参照し、自己実現とは「自分の潜在的な可能性や能力を最大限に開発・発揮して、人間的に成長したい、個性を活かして創造的な価値を発揮することで、生きがいを感じたい」とする欲求のことであると紹介していました。
ホワイト企業が増えているとされるなか「ゆるい職場」で自己実現できない若手社員の話もよく聞くようになってきました。何らかの仕方で、職場での業務と自己実現を結びつける仕方は、組織をマネジメントするうえでも重要視されるようになっています。
そんな自己実現に対して、マズローは、他者から認められることとは別のものだと考えていたようですが、一方でマッキンタイアは、自分1人でポテンシャルを発揮することができない、他者(友達)からのケアによって発揮される、と言っています。
マッキンタイアは、自分で自分のことを100%把握することができるのだろうかと、自立的な人間観を批判しています。自分に潜在する善の発揮を、他者からの助言なしにはできない。善の発揮は他者に健全に依存することによって成し得るというのです。
ぼくが仕事をしているMIMIGURIでは「フィードフォワード」という言葉が盛んに使われています。これは、他者の課題を立て直す、耳の痛いことをあえて伝える「フィードバック」とは異なり、他者の善さとのびしろを見立て、相手に助言をすることです。
マッキンタイアのいう「開花」を促す友人としての助言は、「フィードフォワード」と重なっていきます。つまり、職場で共に働く仕事仲間と、もう少し深い友情を生み出すことによって、互いの善を開花させあう関係性が築けるという理想論が浮かび上がってきます。
しかし、職場における友情とはなかなか綺麗事で、そんなもん簡単にいくかよと思う方もいらっしゃるでしょう。僕もそう思います。仕事での関係がなくなったら、友情だと思っていたものがスーッと消えてしまうことも多々ありますから。
長く続く友情だけが良いものだとは思いませんが、仕事の話だけでなく、そうでない話にも関心をもち、共に遊びたくなるような関係がむすべればこそ、友情は職場に関係なく続いてくでしょう。
だからこそ、非常に当たり前なようでいて重要なテーマである「遊ぶこと」が浮かび上がってきます。友情と遊びは不可分に結びついているのです。遊び心をもって共に仕事をするだけでなく、仕事を脇に置いて無心で遊ぶ時間をともにする。こうして職場をはみ出した友情が生み出され、友達になっていく。そのような友達になるからこそ、開花が生まれていく。
これこそ理想論ではありますが、職場において友情を生み出し得るのだとしたら、無目的な遊びを除いては成り立たないだろうと感じるのです。