欧州のコンテクストとは何か?
欧州文化の特徴が地理的・時間的・論理的な連続性にあると前回、書きました。次にあげる特徴はコンテクストの存在です。
コンテクストは言うまでもないですが、文化・地域問わず、どこにでもあります。文脈や状況あるいは前後関係と訳されますが、言葉のもとを辿れば、「テキストの共有」になります。欧州の文化として「コンテクストの存在」を挙げるのは、そのコンテクストのありかが比較的はっきりしている、という意味です。
日本で教養とは、日本の古代からの歴史に基づいた文化的素養、中国と西洋からの輸入文化の3つをコアとしています。欧州ではギリシャ・ローマからはじまる欧州地域に続いてきた文化に限定されます。もちろんエジプトや中東の文化に勘がつけば更にレベルがあがります。インドや中国のこともそうです。
しかし、それらを素養としてもっていないからといって「教養がない」と馬鹿にして切り捨てられることは、そうないです。この点からすると、自国の言葉である程度決まった範囲のことを勉強しやすいわけです。少なくても(近世をひとまずおいても)中世の時代までをおさえておく、というのが基礎になります。逆に言うと、欧州各国1つだけで、自分たちのことを語りえなかったための結果である、とも言えます。したがって義務教育において母国語にプラスして外国語を2つ学ぶことが推奨されており、かつ高等教育において古典ギリシャ語やラテン語が、日本での漢文のようには「忘却の彼方」に追いやられないのです。
EUが加盟国の条件としてキリスト教圏であるのに固執してきたのも、コンテクストの重視のあらわれです。トルコの加盟希望に異議を唱える1つの根拠でした。
キリスト教の活発度が新旧両方とも欧州で下降気味であり、日曜に教会に行く人が減っている。クリスマスのミサでさえ教会に出向かなくなっている。その結果、教会を改造したレストラン・カフェ・ディスコという施設が増えていきます。バチカンのおひざ元であるローマでさえ、教会は不動産として売却対象になっています。かつて優秀な子どもは家族から1人、神父・牧師にするとの伝統がありましたが、今や聖職の道を選ぶのは平均的なクラスでは少数派であり、特に都市圏域で顕著です。それでも子どもの洗礼が、日本の七五三以上に「欠かせない存在」であると言えるでしょう。
全世界における欧州の政治的・文化的な位置は、19世紀からだんだんと下がってきました。21世紀の今、欧州の文化的な価値そのものを語る機会が減ってきたと思われますが、「コンテクストが不在となったか?」と問われた時、「不在とはとても言い難い」と答えるしかないのが欧州の状況だと思います。 このコンテクストの重要性を認識し、戦略的にコンテクストの創造に力を入れているのがEUのルールメイキング政策であると解釈すれば、いろいろと「なるほど」と見えてくることが多いでしょう。