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「不要不急」に考える、「無駄」と「余白」の経済学

お疲れさまです。uni'que若宮です。

今日は「無駄」と「余白」ということについて書きたいと思います。


「不要不急」は無駄なこと?

緊急事態宣言が再度延長となりました。

度々の緊急事態宣言で国民の危機感も効果も低下しつつもある中、先の見えない度々の延長に振り回され、飲食店や旅行業のみなさんは本当に大変だと思います…。

少しだけ明るいニュースは、映画館や美術館、百貨店などの営業が再開されたことです。こうした施設では感染対策が徹底されておりそもそも目立ったクラスターが起こっていないことや(適切にソーシャルディスタンスを取れば)飛沫の広がるような感染リスク行動もあまりまりませんし、不特定多数が来るからと一律の休業要請をするのではなく個別にリスク判断をしてもよいと考えます。(そもそもそれでいったら満員電車の方がよほどリスキー)

アートを含め、こうした文化的な経済活動は、コロナ禍で「不要不急」の代表のように扱われてきました。たしかに、医療崩壊が起こっているエリアもある今、医療従事者の方々の負担を考えれば、緊急度としてはあまり高くないかもしれませんが、「不要」かというと少なくとも自分にとってはそうではありません。自粛生活で2020年以降文化的活動から遠ざかっているうち、いつのまにか「心の余裕」がなくなりイライラしたり気持ちが毛羽立ってしまっていたことに久しぶりに美術館にいったりすると気づきます。それがいかに「必要」だったか痛感するのです。


一方で、こんなニュースもありました。

これだけ自粛しろ、人手を避けろといっている中、オリンピックに向け代々木公園に3万5,000人収容のパブリックビューイング会場をつくろうとしていて、そのために木を伐採するというのです。


これはさすがに「無駄」だという気がします。


しかしこの「無駄」は、果たして前述のような文化活動の「不要不急」とはどうちがうのでしょうか?不要不急の文化活動が継続されるべきなら、パブリックビューイングもやはり予定通り開催された方がいいのでしょうか?


「無駄」と「余白」のちがい

これに関連した話で、紛らわしい言葉に「無駄」と「余白」があります。

たとえば子供が勉強しないでゲームをしたりしている時、

「無駄なことばかりしていないでそろそろちゃんと勉強しなさい」

と叱ることがあります。

しかしその一方で、アート思考でも「仕事にはあそびが大事」といったりします。それは文字通り「遊ぶ」ことだけを言っているのではなく、成果に直接つながらなかったり一見無駄に思えるような時間も大事だよ、という意味です。なぜなら効率性だけを求めすぎて「余白」や心の「余裕」がなくなると、創造性が失われてしまうからです。

子供のするゲームの時間は「無駄」でダメで、成果につながらない時間は「余白」だからよい。これは矛盾ではないでしょうか?これが矛盾でないためには、「無駄」と「余白」のちがいについて改めて考えてみる必要があります。


1)やりすぎるか/やりすぎないか

まず、「無駄」と「余白」のちがいについて、「やる度合い」の観点から比較してみます。

「無駄な時間」は、英語でいうと「wasted time」です。「waste」というのは日本語に訳せば「浪費」ですが、「浪費」とは(必要以上に)消費すること、つまり基本的に「やりすぎ」の方向です。実はこのtoo muchは「消費」の量が多い場合だけではなく、なにかを作る場合もそうで、例えば料理を「余計」や「余分」にtoo muchにつくりすぎてしまうと、活用できずに廃棄することになり、「無駄」になります。

これとは真逆で、「余白」は「しすぎない」ことがポイントです。「腹八分目」という感じですね。たとえば仕事も「パツパツ」になるまでやりすぎてしまうと「余裕」や「余白」がなくなります。「余計」「余分」と同じく「余り」という字が使われますが、キャパシティに対する正負が逆で、「無駄」がキャパシティを超えて余っているのに対し、「余白」はキャパシティ自体を余らせるのです。


2)可能性や不確実性を増やすか減らすか

また、「無駄」と「余白」には「自由度」や「不確実性」の観点からみてもちがいがあります。

さきほど「無駄」は「やりすぎ」と相関していると言いましたが、「余分」や「余計」というのは基本的に新しいことを始めるわけではなく、惰性や既存の延長でなされます。オリンピックを「やる」と決めたらやめられず「無駄」が生まれようとしているように、既定路線を守った結果の「無駄」は新しい可能性を増やさず、むしろしばしば食いつぶしてしまうのです。(企業の多くで惰性的な「無駄な会議」が時間を食いつぶしていることを思い出しましょう)

一方「余白」は、可能性を増やします。まだどんなことが起こるかわからないので不確実性がありますが、新しい「なにか」が起こる可能性は増えるのです。

「余白」とはこの可能性や不確実性の幅のことであり、ただ空いたスペースを残すこととはちがいます。たとえば以下のような2つのイラストがあった時に、

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左よりも右の方が「余白」度が高いというのが僕の考えです。

それはなぜかというと、どっちが「白」の範囲が大きいか、ということではなく、左側の図では欠損部分の埋め方に自由度があまりないからです。言い換えると、泊地として空けてはあるけれどもその使い方が決まっているのです。一方、右の図は形は完全に描かれてはいますが、色についてはまったく自由に塗ることができます。このように可能性や不確実性の幅が広いことが、「余白」だと思うのです。


なぜ「無駄」も「余白」も「不要」に思われるのか

too muchかどうか、また可能性や自由度を高めるかどうか、という意味ではまったく真逆の方向にも思える「無駄」と「余白」ですが、ではなぜ混同されるのでしょうか。

これは必要性とのバランスにおいて考えるとわかります。

「無駄」と「余白」はその効率や効果の度合、いわゆる「コスパ」の低さにおいては似ているのです。たとえば過剰になされた「無駄」は、必要性を超えたために価値を生み出さなくなってしまい、コストだけを増やすためにコスパが悪くなります。他方「余白」は、「不確実性」を増やし、そこからなにが生まれるかわからないため、その必要性自体が未確定いないのです。もしかしたらすごい価値を生むかもしれないけれども大ハズレかもしれない、価値が見積もれないために「コスパ」が悪い。

こうして「コスパ」の低さが似ているために両者は混同されがちになります。「無駄」を省くことはコスパの観点からは良いことであるけれども、その先で未確定な価値のための「余白」をも切り捨ててしまうと、可能性や未来をも削減してしまうような事が起こります。


こちらの記事でも書いたように、「文化」というのはそのあり方自体が「未確定な価値」に関わっており、コスパだけを重視すると「消費」しか生まれません。



「予算」再考

抽象度が高くなったので、最後に具体的な提言を。それは「予算」の考え方についてです。

これからの時代には「予算」の考え方も改める必要があるのではないか、と思うのです。

今の日本の「予算」は過去に向かっています。過去の実績から予算が作られ、過去につくられた予算を「埋める」ために、年度末になると、「予算消化」のために道路を掘り返したり、必要性のない施策が行われたりします。

特に自治体や大企業ではそうですが、予算を使い切らないとその予算は「不要」だったと判断され、次年度の予算が削られてしまうからです。


「予実管理」という言葉があります。予算と実績をできるだけ近くなるようにコントロールし、「予実」の精度を高めていくと「無駄」もなくなりますが、「余白」もなくなります。それどころか、余った予算との乖離を埋めるために「無駄」づかいがされるという皮肉が起こっているのが今の日本ではないでしょうか。

もちろんすべてを不確実性に委ねることはできません。しかし、予算は本来「予」とついているように「未来の可能性」のために立てられるものです。使いきれなかった予算があったら過去の再生産のために使ったりせず、未来に「キャリーオーバー」してそれこそ新しい「不確実性」のための「余白」にすべきではないでしょうか。

しかし、全てをパツパツに埋めずに不確実性を残すことは、将来の可能性のために重要です。予算を残しても次年度予算が減らされたり影響しないなら、むしろ残った分を「キャリーオーバー」し、次の年にさらに「新しい可能性」をプラスすることも出来るでしょうし、むしろ「無駄」を削減して計画との差分=「余白」を増やそうとするでしょう。予算が過去ではなく、未来を向かうイメージになっていきます。(もうちょっと詳しくいうと、これには税制の話も絡むのですがそれはまた別のところで)


「無駄」を減らし、「余白」を増やす。それは一方では「コスパ」や効率を高めつつも、それだけでは測れない「不確実性」を増やすことでもあります。その燃料としての「予算」の考え方についても見直し、経営も社会も、もっと「未来」へと向かう必要があるのではないでしょうか。

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