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性悪説はお金がかかる。全員にルールを守らせるコストについて。

経営者1年目をやっている。
舞台は創業62年を迎える老舗の酒屋企業、従業員は約100名。私は社外取締役として参画した。

前職での経験を活かし、ブランディングやマーケティングを中心に担当するつもりだったが、今はなぜか人事や総務に手を出している。

と言うのも、この十数年で急拡大した企業だったので、成長に対していわゆるガバナンス(管理体制面)が追いついていなかった。

例えばコロナ前に作られた就業規則にはリモートワークの項目はなく、各種法改正に対するアップデートもできていなかった。

総務や経費関連も紙ベースのものが多く、FAXやプリンターは常にフル稼働。名刺共有やリード管理の意識も希薄だった。

などなど、言い出したらキリがないが、要するにブランディングなどの社外に対する取り組みの前に、社内に対する取り組みを優先すべき状況だった。

1.棚卸しをして、
2.整理をして、
3.ルールを作る。

今は各分野でこれを繰り返している。

特に難しいのが「ルールを作る」フェーズだ。どの程度ガチガチに縛るか、は企業カルチャーにも影響する。

例えば就業規則や出張規則など、性悪説に基づいてつくれば、ルールが守られる一方で社員の行動は制限される。性善説に基づいてつくれば、社員は自由闊達に動ける一方で、ルールが形骸化する。一定数のルール破りや、不正を黙認することになるだろう。

私が社外取締役になった酒屋企業は比較的後者でやってきた。自由闊達な社風が魅力で、個性的な社員たちが伸び伸び活躍していた。その雰囲気は前職の電通(の十数年前)にも似ている。

しかし時代は変わり、今は会社の規模感も変わりつつある。創業地の千葉だけでなく、取引先は全国、全世界に広がっている。当然、業界内での立ち位置や役割も変わってきた。

この状況下で、経営としてどうバランスを取っていくか。そんなことを考えていたら、前職の出張で訪れたデンマークの電車を思い出した。

今日はそんな話。

◾️新しい合理性に基づく自由と責任

コロナ禍に突入する直前、私は出張でデンマークとエストニアを訪れた。目的は教育とDXに関する現地視察だ。

その目的は十分に果たせたのだが、なぜかデンマークの公共交通機関に関するスタンスが印象に残っている。その姿勢が、次世代の経営のヒントになる気がしたからだ。

デンマークの電車には、日本では当たり前の2つのものがなかった。「切符売り場」と「自動改札」だ。

「無賃乗車し放題じゃないですか?」

と私が現地のコーディネーターに尋ねると、彼はこう答えた。

「大丈夫ですよ。たまにスタッフが回ってきて、チェックします。無賃乗車だと分かったら、多額の罰金を取られるので。」

帰国後にこの話をすると「北欧は性善説なんですね」というリアクションを取られることが多いが、私は「新しい合理性」という視点で受け取った。

つまりはこういうことだ。

公共交通機関とは言え、経済性は必要で、収入の原資は乗車賃だ。この収入から費用(コスト)が引かれていく。

切符売り場も、自動改札もコストだ。例えば乗車賃でコイン10枚分の収入があっても、切符売り場のコストで4枚自動改札のコストで4枚を使ってしまうと、残る収益は2枚になってしまう。

つまり全員の不正を防ごうとすると、コイン8枚分のコストがかかってしまうのだ。

では、デンマークのようにいっそのこと切符売り場も自動改札も無くしてしまったらどうだろう。コイン8枚分のコストが0になる。その代わりにスタッフが乗車チェックをするコストが新たに発生するが、それは切符売り場を設置して、自動改札を導入・維持するコストよりは安いはずだ。例えば乗車チェックのコストがコイン3枚分だとする。

それでも、無賃乗車をする人が3割がいたとして収入はコイン7枚。これに対して3枚分のコストがかかる。残る収益はコイン4枚なので、収益は2倍だ。

さらに不正乗車をした乗客からの罰金という新たな収益の可能性もある。

もし不正乗車率が想定よりも増えるのであれば、乗車チェックの頻度を上げつつ、不正乗車の罰金を上乗せしてバランスを取ればいいのだ。

さて、どちらが経営という視点で取るべき手段だろうか。もちろん正解はないが、私は後者の方が「合理的」だと感じた。

これは性善説などという概念的な話ではない。後者は性善説の上で成り立っているのではなく「無賃乗車による減益分は、無賃乗車をする人たちに支払ってもらう」という厳しいルールの上で成り立っているのだ。

だから提供側はルールを厳しく設定して、切符売り場も自動改札も用意しない。資源は有限なのだから「無賃乗車をするような人のためにかけるコストはない」と考える。

つまり乗客に無賃乗車する自由を与えつつ、無賃乗車による責任を背負わせたのだ。

そのスタンスには、限られた経営資源を有効活用しようとする小国の新しい合理性意識を感じる。

◾️均質化にはお金がかかる

日本には今、高額で高性能な切符売り場や自動改札機がたくさんある。それはある意味で、性悪説の象徴かもしれないし、国として豊かだった頃の名残とも言える。

1970年代、日本は一億総中流社会と呼ばれていた。「国民生活に関する世論調査」の中で、自分の生活水準を「中の中」とする回答が最も多く、「上」または「下」とする回答が合計で1割未満だった。

これは当時の日本経済が「全員にルールを守らせるコスト」を支払っていた功績の1つとも言える。

今、経営を少しかじってみてわかる。性悪説は金がかかる。不正や基準を逸脱する行為を防ごう思ったら、お金がいくらあっても足りない。

だから経営は厳しいルールで線を引き、社員自身で担ってもらう自由と責任を明確にする必要がある。それは性善説に基づいているからではなく、限られた経営資源を最適に配分するのためだ。

そう考えると性悪説に基づき、全員にルールを守らせるコストを支払っている方が「やさしい経営」なのかもしれない。

しかし今、そんなコストを払える日本企業はほとんどないだろう。会社と社員の線引き、自由と責任の線引き、そのルール作りが経営として一番大事な仕事なのかもしれない。

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