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鍋にぶっこめば、いい出汁が出るかもしれない

日本人は無宗教であると言われる。

世界価値観調査(2017-2020)によれば、日本人が「無宗教」と回答した割合は63%である。「無回答」や「わからない」も含めれば7割にもなる。

とはいえ、無宗教ではあるが、日本人に信仰心がないわけではない。ありがたいものに手を合わせるし、先祖の霊を大切にするし、悪い事をすれば「バチが当たる」という感覚もある。

阿満利麿著『日本人はなぜ無宗教なのか』の中では、日本人は信仰心がないのではなく、「創唱宗教」にもとづく信仰には無関心なのだ、と書いている。
創唱宗教とは、教祖・教義・教団がはっきりしている宗教のこと。

そもそも、お正月には神社に初詣に行き、お盆にはお寺で法事をし、クリスマスにはキリストの誕生日を祝う(というかそういう意識ではないと思うが)などごちゃまぜである。

何も信仰していないわけではなく、なんでも取り入れてしまうのが日本人なのだろう。仏教伝来した際に、何の違和感もなく神仏習合してしまったように。

たとえば、七福神(恵比寿・大黒天・福禄寿・毘沙門天・布袋・寿老人・弁財天)というのがあるが、恵比寿は日本古来の漁業の神、大黒天はヒンドゥー教のシヴァ神の異名、福禄寿は道教の神さま、毘沙門天は仏教の四天王の一人とインドの神や禅僧や日本の海神など、ごちゃまぜである。

七福神それぞれが「俺だけが唯一絶対に正しい神である」などと主張して互いに争うことなどなく、仲良く同じ舟に乗り合わせて楽しそうにしているわけだ。

そこには「どれかひとつだけが正しくて、他は間違っている」などというクソ狭い思考とかなくて、「お前はそれを信じるのね、へえ、そうなんだ、いいね」くらいの感覚なのだ。
但し「いいね」とは言っても、その人の信じるものを自分も信じることを意味しないし、仮に、その信じるものを自分も信じたとしても、今まで自分が信じてきたものを捨てることはしない。

いうなれば、なんでも鍋料理のように放り込んで「いい出汁がでるかな」的な感覚なのである。

中には「変な神様」や「やべえ神様」と感じるようなものを信じている人もいるだろう。しかし、それを真っ向から否定するのではなく、「なんか嫌だけど、鍋にぶっこんでしまえばいいんじゃない」くらいのものだ。
そうやって、人それぞれ、いろんな鍋料理が出来上がっていくのだ。

大事なのは、普遍的で唯一絶対の正義があるという思考に偏らないって意識である。

だからこそ、日本人は旅人でも「マレビト」というひとつの神様として尊重し、一期一会の出会いでもそれを自分の鍋料理にぶちこんで、その人と接触したことでの新たな出汁を作り続けている。それが繰り返されて、実に深いスープとして熟成されていくわけだ。

拙著「居場所がない人たち」において、「人との接触を通じて自分の中のコミュニティを作り出す」と書いたのはまさに「自分のスープを熟成させる」ことでもある。

「知る」ことと「分かる」こととは別である。
知らなければ当然分かることはありえないのだが、知ったからといって必ずしも分かるものではない。しかし、重要なのは、分からないから拒絶するのではなく、「分からないものは分からないまま知る」ことである。

日本人の宗教観のような話に関しては、松岡正剛氏の著書などがいろいろと参考になっていたのだが、お亡くなりになられたそうでとても悲しいです。
ご冥福をお祈りします。


ちなみに、冒頭の世界価値観調査で意外だったのは、日本人が無宗教であることは納得できるのだが、イギリスも61%、フランスも58%が無宗教であること。西洋=キリスト教ではないのだな。

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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。