移動不要の生活圏に再構成するーEV化やスマートシティ構想にある「隙間」を突く
とても個人的な話からスタートします。
30年前にぼくがイタリアに来た動機の一つに、自動車と都市の開発を同期化させたいとの夢がありました。それまで日本の自動車メーカーのサラリーマンとして仕事をしながら、一つのことが気になっていました。都市とクルマが開発の段階から、お互いがあまり仲が良くないことです。ほとんどコミュニケーションがないんですね。そのくせ文句を言い合っている・・・。
特に街の風景として膨大な数のクルマはもう少し何とかならないか、とぼくは考えていたのです。ちょうど鉄道の駅で傘のシェアサービスをはじめた頃で、クルマも同じようなことができないか、とか。都市デザイン側からは、せいぜいアーバンファニチャーとしてのクルマか、えらくロボット的なモビリティか、そのあたりの提案にとどまっており、このテーマに鈍感なカーメーカーが目を覚ますようにことはなかったです。
ただ、このテーマを自分のビジネスとして考えるには、当時あまりに難解だったので、トリノというカーデザインのメッカにいて世界のクルマ開発のトレンドをみながら、とりあえずタイミングがくるまで脇においておこうと決めました。
ですから、上の記事にあるような環境がサステナブルであるためにクルマが電動化する潮流を追っている一方、ライドシェアリングやスマートシティについても関心があります。しかし、今、あらゆる分野が総出でアイデアを出し合っているわりに、何かぼくの心に響かないのです。何故なのだろうかと思案してみました。ちょっとその理由を書いてみましょう。
移動と1トンを超えた鉄の塊についてどうする?
「内燃機関か電気か」という選択の話になると、全体システムとしてエネルギーをどちらがより消費するのか、どちらが炭素を多く出すのかとの議論になります。そうすると、ある人は「EV化は決して脱炭素にならないんだよ」といい、その人が「だから、当面このままでいくしかない。だいたい仮にEV化した場合、内燃機関の部品メーカーはどうするのだ?」と言う傾向に長い間ありました。
そして、もともとの問題としてある「1トンを超えた鉄の塊を1人で使っている」、「その塊が使われずに空間を占拠している時間が圧倒的に多い」ことから発生する諸々のネガティブ面にはあまり触れません。
他方で、これらのマイナスを何とかしようとの社会的動機でライドシェアリングという動きが出てきました。それをグローバルのビジネスとしてサービスを提供するウーバーのような会社も出てきます。だが、社会的に不安定な労働者をドライバーとして酷使する、グローバルプラットフォーマーとして君臨し続けている面は否定できません。そこにぼくも釈然としない気持ちが残ります。
また、自転車やキックボードを乗り捨てで使える環境整備も世界各都市で進んでいます。殊にパンデミックで公共交通の利用キャパに制限がでてきたところで、プライベートカーの大幅な揺り戻しを回避するに、例えば欧州の自治体も自転車専用レーンの設置に躍起になっています。
それぞれの次元で、それぞれの対策が、あるところでは公共財のビジネス化という名目でもって推進されています。しかし、これらの問題解決が「そもそもとして、そんなに移動を前提する社会ってどうなのよ?」との問題意識に的中しているか、との問いに答えているでしょうか?
「15分圏内の街(a 15-minute city)」が提示するのは何か?
世界各国でEV化が推進されているのは、結局は企業のビジネス競争の駒として「しか」使われていないのではないか。そのバックアップとしての産業政策がある。この点への疑心暗鬼がなかなか拭えないです。もちろんビジネスがテクノロジーや社会変革の背中を押すにしても、です。これが、ぼくの心に響かない大きな理由だと思います。インターネット化した車内のスマートワーキングオフィスも、渋滞のなかで行われている限りマッチポンプのようなものです。まず、問うべきは、必要な移動とは何か?です。
「15分圏内の街(a 15-minute city)」というコンセプトがあります。下の動画は、ソーシャルイノベーションのエキスパートで、ソーシャルイノベーションにデザインを持ち込んだ世界的第一人者であるエツィオ・マンズィーニに先月、ぼくがインタビューしたものです。彼が、この15分圏内の街のコンセプトについて説明してくれました(英語だけですがYouTubeの字幕があります)。
徒歩、自転車、公共交通機関等を使って自宅から15分程度の距離内で、生活インフラがすべて揃う「住める」街をつくるというコンセプトです。即ち、無駄な移動そのものをなくしていく生活環境を提案しています。言うまでもなく、まったく移動をなくすのでも、個人の自動車の使用をまったくなくすということではありません。生活圏を再検討することで、不要な移動を極力減らせるはず、ということです。
コンセプト自体は以前からあるがパリで花開く
こうした移動時間を減らす都市つくりの試みは、オーストラリア政府が2014年に提起した「30分圏内の都市」にもありました。この考え方は米国のデトロイトやポートランドでも導入されますが、一挙に世界の注目を集め出したのはパリです。
2019年、スマートシティなども専門のソルボンヌ大カルロス・モレノ教授が15分圏内の街を唱えます。そして今春、そのコンセプトを採用してパリ市長に再選されたアンヌ・イダルゴが、数々の大胆な施策を発表したのです。バルセロナやコペンハーゲンなど他欧州都市同様、ミラノ市長のジュゼッペ・サーラも、この9月、同じように15分圏内の街のプランを発表しています。
ぼくが興味を抱いたのは、スマートシティというとおよそ技術オリエンテッドでセンサーを多用したデータ中心的な匂いがしがちのところ、まさしくその専門の科学者であるモレノが、ヒューマンスケールの生活圏の重要性を説いている点です。そして彼は大規模な都市改造でありながら、物理的な改造を歩道の増加や緑化など一部に抑え、いわば都市内の機能コンポーネントを入れ替えることで「都市を再構成」しようとしている、とぼくの目には見えるところが魅力です。例えば、学校の建物は昼の授業が終わったら使われない。この時間を他の目的のために有効利用することで街をコンパクトにする、という発想をするのです。
多くの批判はあるだろうが、15分圏内の街を検討すべき理由
厳密な枠組みで実現を考えるならば、このコンセプトには多くの障害が待ち受けているでしょう。なによりも都市のゾーニング(商業地区、オフィス街、工場群など、あるいはベッドタウン)という構図を根本からひっくり返し、小さいサイズの自律的生活圏を都市内のあらゆる箇所につくり、加えて都市郊外に対しても同様の適用を試みようとするのです。
たとえ実験的な地区はわりと早く作れるとしても、それぞれの地区が平等なステイタスを獲得するのには苦労するだろうと思います。しかし、こういったソフト面の調整が強いプロジェクトは、細かいところの実現性を突いて批判を繰り返すことにあまり意味がありません。フレキシブルに対応できる範囲が大きいからです。したがって可能なところは大胆にスタートすべきと思います。
というのも正直言えば、このコンセプトの現実性を危ぶんで足踏みしているうちに、企業論理が一方的に前面にでやすいEVやコネクテッドカー、あるいは自動運転がどんどん「社会的な正当性」をもって大手を振る(振り過ぎる)ことで、「移動を極力排する」との課題が宙ぶらりんなままに水面下に沈められて窒息死していく・・・これをぼくは恐れています。
過去、ぼく自身、英国のスポーツカーメーカーと仕事して田舎のワインディングロードをエンジニアと一緒に走ったり、トリノでスーパーカーづくりに関わっていたので、クルマがあまりに悪者になるのは気分的によいものではありません。しかしながら、あらゆるところにクルマが溢れ、それも大きなSUVを1人だけで使っている風景をみるのも心が落ち着きません。そして、冒頭に書いたように、それら鉄の塊がただただひたすら長時間、身動きせずに並んで寝ているのはあまり心地よいものではないです。
新しい土地で実験的な都市をつくるのもいいですが、歴史的なコンテクストのある都市で人間的な生活とは何かを問い、その空間にあう個人移動のしかたを追求するに、社会善を掲げたはいいものの狭い視野のビジネス論理が一方的に足をひっぱらないことを祈ります。
結論です。都市計画の専門家や都市に住む人々が積極的に、新しい移動体とコミュニティを実現するための協同作業を自動車会社に提案していく時期です。SDGs、オープンイノベーション、コ・クリエーションなどのコンセプトや方法が普及してきた成果を発揮させる時です。もちろん、自動車会社も視野を広げるに相応しい契機です。
写真©Ken Anzai