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『パラサイト』ポスター問題に考える。広告コミュニケーションの「終身之計」

ポン・ジュノ監督すげーな!!四冠おめでとうございます、uni'que若宮です。

「パラサイト」の快進撃で湧いたアカデミー賞ですが、こんな話題もありました。


韓国版のポスターはシンプルなのに、日本版では「パルムドール受賞」「100%予測不能エンターテインメント!」などの文字が加えられています。


広告における「クリエイティブ」とはどういうことか?

先程のtogetterを見ると、まさに賛否両論。

「日本のポスターはダサい!」という声に対し、「楽天の商品ページとかもダサいけど、A/Bテストすると結局こっちが効果あるんだぜ」という反論があり、「集客できるのだから仕方ない」、「結局消費者がそれを求めるんだから」、というようなやりとりがされています。


思えば、似たような議論がお正月にもありました。

たいへん話題になったそごう・西武の広告ですが、この記事にはいくつかの批判があげられています。

・このクリエイティブが良くて話題になっても、売上には直接結びつかない
・このクリエイティブは良くても、この広告には来店効果、購買促進につながるようなベネフィットに関する説明がない
・この広告は、製作費や媒体費といった投資費用に見合った効果がなくお金の無駄づかいである
・このような広告はクリエイターや業界が好む賞を狙うようなクリエイティブアイデアであり、本来そごう・西武が目指すべきマーケティング目的とズレている

『パラサイト』では「日本の広告のクリエイティブって…」という声がある一方、すごいクリエイティブだと称賛されたそごう・西武広告に対しては真逆の批判の方が多い、というのが面白いです。

クリエイティブの表現に対しての好き嫌いをいうと主観の話になるので、今回はあくまで広告の「コミュニケーション」として考えてみます。広告がどういうコミュニケーションであるべきかは

・その広告は何のためか?(for what)
・誰に届けるのか?(to whom)
・効果をどれくらいで測るか?(by when)

あたりで変わってきます。


その広告は何のためか?

そごう・西武広告への批判は、広告が売上や集客につながらない、というものです。なかでも

・このような広告はクリエイターや業界が好む賞を狙うようなクリエイティブアイデアであり、本来そごう・西武が目指すべきマーケティング目的とズレている

という批判は、あのCMで大きな成長を遂げた、ハズキルーペ会長の広告代理店批判とも似ている気がします。

「まずは、商品を知ってもらうことが第一。しかし、CMクリエイターは商品を売ることよりも、自分の作品を作ろうとして、見当違いな企画を持ってくることが多いんです。“ミラノの駅から始まって…”とか“お殿様にハズキルーペを献上して…”とか(笑い)。こちらは60秒のCMの宣伝費に100億円かけていますから、1秒2億ですよ。ミラノの風景なんか無駄に見せるくらいなら、自分でやるよ!って」

広告の目的として「商品を知ってもらうこと」というのはとてもシンプルです。そして商品を知ってもらうのは買ってもらうためです。言うまでもなく、商品を買って欲しくないから広告を打つ企業はありません。

この視点からみると『パラサイト』日本版ポスターはどうでしょうか?


加えられているのは「情報」。そして、失われるものは?

日本版に追加されているのは映画に関する「情報」です。twitter上で擁護があったように、これらの周辺情報によってたしかに興味を持つ人は増えるでしょう。楽天ページでも商品について詳しい情報があればあるほど、安心して商品を購入できますから「情報の追加」は広告としては正しいようにも思えます。

しかし「情報の追加」にデメリットはないのでしょうか。僕は「情報」の追加には2点のデメリットがあると考えます。


一つは、「埋もれ」問題

情報は多ければ多いほど伝わるとは限りません。たとえば保険の「ご契約のしおり・約款」を思い出してみるとわかりますが、情報は多すぎると平板になり、もっとも伝えるべきことが埋もれてしまいます。今回の件でいえば、「パルムドール受賞」「100%予測不能エンターテインメント!」が加えられることでみる人の意識はそこに取られますが、その情報が『パラサイト』という商品を知ってもらう上で優先して伝えたいことなのか、ということでしょう。

ここに2点目の問題が生まれます。「このポスターが最も伝えるべき価値はなにか?」ということです。実はこれは自明ではありません。楽天の商品と比べると「映画」はあきらかに機能的価値よりも情緒的価値が高い商品です。そうすると商品として伝えるべきは、機能的価値や受賞などの付随情報ではなく「作品の空気」かもしれないのです。そしてもし「情報」が加えられることでそれが埋もれて伝わらなくなっているとしたら、「商品を知ってもらう」ためには却って阻害かも知れない。

そごう・西武とハズキルーペは広告論としては真逆のようですが、両者とも「最も伝えるべき価値」から考えられるべきでしょう。ハズキルーペのように機能的価値の比重が高い商品では、それがしっかり伝わることが「商品を知ってもらう」なのですが、そごう・西武の場合はどうでしょうか?もし西武そごうの提供価値が「扱っている商品そのもの」であればスーパーのチラシのようなものがよいでしょうが、逆に「西武で買い物をするという体験」にあるのであれば、情緒的価値のほうを伝えるべきだということになります。

念のため誤解のないように言っておくと、僕は「わかりやすい情報」の広告はレベルが低い、とは考えません。商品やサービスが機能価値の比重が高いものであったり、価格が大事であればそれをアピールすることが広告としてよいでしょう。しかし(映画や音楽などは特に)プロダクトが情緒的なものであれば、その価値を伝えるために「情報ではなく情緒」を大事にした表現のほうが優れている場合があり、それは必ずしも即効性があったり万人にわかりやすいものではないかもしれないのです。要は広告はそのプロダクトやサービスのユニークバリューに沿ったものであるべきで、作品によって最適解は違うということです。


「誰」に「商品を知ってもらう」のか?

広告をコミュニケーションとして考えた場合、「誰」に価値を知ってほしいか、誰に届けるのか、ということも重要です。

広告効果の最大化とは必ずしも露出をたくさんすることではありません。「万人向けのコミュニケーション」が「誰にも刺さらない」ものになることもありますし、行動変容やコンバージョンの最終KGIを何にとるかによっては、狭く濃く届けるのも大事です。

スタートアップをやっているとよく経験することですが、プロモーションは事業フェーズに合わせて打っていくべきで、初期にマスを打つと逆効果なことも多くあります。「届くべき人に届ける」ということは、逆に言えば「届けるべきでない人には届けない」ということも重要です。商品のターゲットではない人に届いてしまうと価値が理解されず、むしろ逆プロモーションになるからです。


もし『パラサイト』が映画に詳しくない人たちをターゲットにするなら、「受賞!」など文字情報での説明を増やすことは効果があります。自分で判断できない人にとっては他者の評価は大きな安心材料になるからです。「菅田将暉も大絶賛!!」と書けばなお効果が高いかも知れません。逆に、ある程度映画通で作品の情緒的価値に重きを置き、自ら映画の良し悪しを判断するような人たちにとっては作品の外部の「情報」は余計なものになってしまう可能性もありますし、「余計な情報がなくても観る人たちにだけ」に届けるという戦略もありえます。


効果の時間軸をいつまででみるか?

広告は予算を投下して打つものですから、効果がなければいけません。しかしこの「効果」はどういう時間軸で考えるかによって違ってきます。

たとえば、広告を打ってすぐ直接的に動員があがることだけが効果だとすれば、「わかりやすい情報」が比較的効果が高いでしょう。「わかりやすさ」は短期にリターンがあるからです。

(そもそもよく考えると多くの人に売れたり観られることだけが成功だとか良い作品だということはないのですが、)多くの人に観られることを目指すにしても、効果の時間軸を長めにとると施策の評価は変わってきます。たとえば最初は情報を絞って作品の価値をわかってくれる映画通の人たちだけに届けて、その人達からSNSなど口コミを経由してじわじわと多くの人に伝える、という戦略もあるのです。こういうボディブローのように効いてくる間接的な伝播もまたきちんと効果があるのですが、経路が複雑だったり遅れてくるため、広告として設計したり計測にスキルがいりますし、勇気もいります。(ちゃんと効果が見える化出来ないと広告主や会社から「失敗」だとされてしまう)


また、「分かりやすさ」や「短期的な費用対効果」に偏重しすぎると、より長い時間軸で大きな価値を失うことになりかねません。

拙著『ハウ・トゥ・アート・シンキング』でも書いているのですが、「消費」や「コスパ」が中心の経済活動は文化をすかすかにし、石油資源を使い切ってしまうようにいずれ文化資源を蕩尽してしまいます。

広告が、短期効果をもとめて多数派の大衆に向けてチューニングすると「わかりやすい」ものだけになり、結果として大衆も「わかりやすい」ものにしか反応しなくなります。するとターゲットが反応しないから、という理由で広告は次もそれに合わせてまた「わかりやすい」ものになります。このループの中で、どんどん「わかりやすい」ものだけしかなくなり、文化が皮相化してしまうのです。これは報道や情報番組についても同様で、日本のメディアが「マスゴミ」と揶揄される所以ですが、この意味で提供者は消費者との共犯関係にあり、軽率に消費者の「分かりやすさ」に合わせたり「当てにいく」ことは長期的には自分たちの価値を殺していくことになってしまいます。

そうではなくて(すぐには万人に理解されなくても)自分たちの信じる価値を届け、その中で徐々に消費者の感性を育て(顧客の本質的なナーチャリング)、価値をより深いものにしていくこともまた大事なのです。


ここで唐突に、菅子を引きます。

一年之計莫如樹穀、十年之計莫如樹木、終身之計莫如樹人、一樹一穫者穀也、一樹十穀者木也、一樹百穫者人也

(拙訳:1年計画は穀を植えるようなものだが、10年計画なら樹を植えるべきで、人を育てるように一生をかけてやるべきこともある。なぜなら穀を植えると1の果が返ってくるが、樹なら10が得られ、人からは100の果が返ってくるからだ)

短期的に成果が得られるものは、すぐ返ってくるけど1しか戻ってこない。長い目で考えると目先は成果がみえないけれどもいずれ100になるものがある。そのためには人を育てることが必要であり、それによって文化は消費されず、育まれていく。

「広告のクリエイティブ」ひとつとっても、目的とターゲットと時間軸でまったくちがうものになるよね、というお話でした。








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