本当に利己的な人間は、決して蜘蛛の糸を昇ったりはしない
今日はこちらの記事から。
「新型コロナのような感染症への耐性の強い社会をつくるために、市民一人ひとりの行動変容がカギを握る」という記事に主旨には賛成だし、「社会の免疫力を高める」というのはいいキーワードだと思います。
しかし、タイトルにあるように「利他性が行動変化を促す」とか、記事の中で出てくる「自分だけでなく他人のためにもなるという利他性」を称賛するような「利他至上主義」的な話には、賛同できないし大いに反論したい。
ちなみに、先日の4/4土曜日、晴天にも関わらず渋谷のスクランブル交差点はほとんど人出がありませんでした。
これ、若者はみんな利他性で動いたんでしょうか?だとすると、通常の渋谷来場者から考えると、600万人以上も利他な人がいるということですね。そんなわけはないのです。
日経の記事の中では、以前僕が以下の「人を動かすのは、利益か?恐怖か?」という記事でも引用した大阪大学大竹教授が説明した「ナッジ理論」を引用しています。
ナッジとは、直訳すると「ひじで優しく押したり、軽くつついたりする」という意味で、ちょっとしたきっかけを与えて、消費者に行動を促すための行動経済学の理論です。
感染症を例にすれば、
A あなたが不要不急の外出を控えれば、多くの人の命を救います
B あなたが不要不急の外出をすると、多くの人の命を奪います
AとBのどちらがより人の行動を抑制する効果があったか?というと、結果はBの方です。記事では、AもBも利他性と一括りにしていますが、それは大きな間違いでしょう。
少なくとも、Bは完全なる利己性です。
拙著「結婚滅亡」の中にも書きましたが、日本人は他人は全員集団主義と思いながら、自分だけは個人主義だと思っている人の集まりです。日本人が客観的に集団主義的行動をしているように見えるのは、「集団で行動した方が自分の得になるから」であり「損をしないから」です。基軸は自己の利害にあります。
なぜ、多くの日本人がBを選ぶかというと、Bの場合に「自分が外出したことで誰かが死んでしまったら、自分の責任にされてしまうことが損だから」です。恐怖だからです。Aで「誰かを救う喜び」より、Bで「誰からも責められない」というリスク回避を優先するわけです。
では、Aは利他性なのか?と言えばそれも違います。
「誰かを助ける」という目的のために俺は動いた。というのは一見、利他的な動機が先で、目的でもあるように思えますが、「誰かを助けるため」とはまだ「誰も助けてはいません」。「誰がを助けた」というのは、すべて結果でしか判断できないものです。にも関わらず、まだ誰も助けてもいないのに(行動すれば確実に助けられるなんて予測してしまう人間は、神かバカです)助けるために動いたというのは矛盾する。それは、自分の行動が正しいものであった(あってほしい)という後付けの理屈によってもたらされているに過ぎません。
つまり、極論すれば、こう動けば「俺は誰かを助けるために動いた良い奴としてみんなからの称賛されるかも」という利己的期待を込めた動機が主であり、利己のために利他の理屈を活用したに過ぎないんです。
こういうのを「おためごかし」と言います。
「いや、俺は違う」とい言いたい人もいるでしょう、。勿論、純粋に利他的に行動していると信じている人もいるでしょう。勿論、ご本人が何を信じようと自由なのでそれは否定しません。
しかし、残念ながら、それは目的と結果の混同であって、感情と理屈の主客転倒でしかないのです。じゃなかったら、人間に承認欲求も達成欲求も存在しないことになる。
身も蓋もない言い方をすれば、ほぼ大部分の人間の行動は無意識下で利己のために制御されていて、純粋な利他行動を起こせる者は少ないということです。
それでは、個々人が自分勝手に動いて、バラバラな社会になってしまうではないか、などと考えてしまう人は本当に人間と社会がわかっていない。
前述した通り「集団で行動した方が自分の得になるから」動くのであり、「損をする利己行動はしない」のです。ひとりひとりが「損をしない範囲の利己行動をする」ということは、結果的には「集団にとっても損の少ない行動」を実現します。要するに、個人の利己行動は結果として社会全体の集合的利益に結び付くのです。「情けは人のためならず」とはそういうことを指します。
「社会の免疫力を高める」とはまさに、すべての人間が自分を犠牲にして他的的に行動をするのではなく、自分の利益を確保(集団の中で自分が損をしない)しながら行動することが、結果的に全体の防御力を高めるということに他ならない。
得体のしれない社会とか国家のために、個人が死んでしまったらそれこそ本末転倒です。
非常時や緊急事態に道徳的な行動規範を持ち出す輩がいますが、本当に筋が悪い。緊急時だからこそ、「まずてめえの利益を考えろ! そうしないとお前が損するぞ」と訴えた方が聞く耳を持つし、行動できるのです。
大事なのは、そうやって個人が行動した結果として、実は「てめえの利益だけじゃない、大勢にとっても利益になることが実現される」ってことです。
利己の塩梅が大事です。
自分だけが助かろうとして、他の人間を足蹴にするような蜘蛛の糸を昇る餓鬼は全員損をします(緊急事態宣言を前に東京から地方に逃れる人などはまさに蜘蛛の糸の餓鬼そのものです)。
「ナッジ」が提供するのは、そういうことを理性ではなく、直観的に訴える手法であり、そこに道徳心とか余計なものは介在しない。
外出自粛とかを「利他性」で訴求すると、どうしても「自分はみんなのために我慢をしている」という負の感情に支配されます。しかし、「外出自粛は自分のためなのだ」と理解するだけで、随分と気持ちは違うものになるでしょう。
押し付けや無理やりの「利他性」は、残酷な「攻撃性」に転化しやすい。「みんなのために自分だけが我慢してるのに、我慢しない奴はとんでもない。悪だ。悪は排除してもいいのだ。殺してもいいのだ。それが正義だ」なんて思考に陥ります。
そんな人の成れの果てがこういう事件を起こすのです。