ビジネスにおける、アート思考の位置づけと使い方
お疲れさまです。uni'que若宮です。
先週、こんなイベントがありました。
「アートシンキングの学校」というのは、日経COMEMOが主催で僕がプロデュース/キュレーションをする「アート×ビジネス」のイベントシリーズで、昨年も今年も4回ずつ開催しました。
特に今年はいわゆる座学のセミナーではなく、「体験」を重視し、各回アーティストをお招きし、アート思考レクチャーのあとでアートパフォーマンスを体験し身体ごと揺れていただく、というのをコンセプトに開催してきました。
ビジネスセミナーだとおもって参加したらアーティストのパフォーマンスを見せられてポカンとする、みたいなのをわざと仕掛けていて、それは一定成功していたと思うのですが、その一方で毎回質問にお答えする時間があまり取れなかったこともあり、今回は「対話篇」ということで対話メインにしました。
(代表者として現地で参加された、小原奈名絵さんのレポートはこちら↓)
ビジネスにおけるアート思考の位置づけ
アート思考に関する質問のなかで一番多いのは、「ビジネスのどんな場合にアート思考をつかったらいいのか?」「アート思考を活かしたいけど会社では話が通じない、アート思考ではうまく行かない場合もあるのではないか?」というものです。
この疑問はとてもまっとうで、僕自身、アート思考だけが万能なのではなく、(ベースとして重要ではあるものの)デザイン思考やロジカル思考と併用することが重要だと考えています。
つまり、タイミングや目的に合わせてこれらの思考を切り替えながら使うべきで、アート思考を生かすためにもその使い分けが重要とおもっているのですが、具体的には下記のような図式で考えています。
①自分を研ぐフェーズ
まず、左側の三角形ですが、これは「ユニーク・バリュー」を見出すために鉛筆を研ぐように「自分」を掘り出していくプロセスです。
ひとは日頃、「常識」や「合理」という誰かが決めたきまりに囚われていることが多く、結果としてみんな「おなじ」行動をとってしまい、「ユニークさ」や「代替不可能性」が下がってしまっていることが多くあります。
企業で事業をつくったり、起業のためのビジネスアイディアをつくるときにも、ニーズ調査を行ったり、いわゆるロジカル思考で事業をつくるとどこかで聞いたようなアイディアしか出てこないことが多いのです。これは考えてみれば当たり前で、「論理」というのは基本的に誰が考えても同じ答えが出るものですから、同じデータ+同じ論理で考えるとアウトプットも「おなじ」ものになってしまいます。
デザイン思考ではエスノグラフィなどの手法を使って、まだ他の人には見えていないような「潜在課題」を掘り出すので、ロジカル思考よりは「おなじ」の度合いは減ってきます。
しかしいずれにしても、両者の起点は自分の「外」にあります。これに対し、アート思考は誰かのニーズではなく「偏愛」や「違和感」のような「自分」を起点に置くので、誰かと「おなじ」になることがないのです。
ただ注意が必要なのは、「自分」起点といってもそれは単に主観的に物事を考える、ということではないということです。なぜなら「自分」とは本来、社会の中で自分だけが発揮できる、他とはちがう「自分ならではのユニークな価値」でなければならないのですが、他とはちがう価値を見つけるためには社会や他者との関わりとそこにある「ちがい」こそが手がかりとなるからです。
よく「やりたいことをやればいいってことですか?」と言われることもありますが、これはちょっとちがうと僕は考えています。たとえば小学生にやりたいことを聞くとほとんどみんな「学校休んでゲームしてたい」とか言いますよね。このように「やりたいこと」はユニークどころかみんなと「おなじ」になってしまうことがあります。そうではなくて、本当に「ユニーク」というためには「他の人にはできないゾーン」まで行く感じが必要です。
アートにおいても、実はよいアーティストほどリサーチをたくさんします。ただしそのリサーチは「ニーズを調べるもの」ではなく、他のアーティストの作品を知ることで「自分」を相対化し、自分ならではの作品のあり方を探っていくためのものです。能に「我見」という言葉がありますが、主観的なだけでは「我見」にすぎません。それが社会においてどういうユニークさをもつか、というのは舞台上の自分の姿を俯瞰からも見る「離見の見」のような視点が必要なのです。
また、左側のプロセスを「守破離」にもよくたとえます。「守」というのは型を守る段階、「破」で型をやぶり、「離」で型を離れて自分らしい芸をみにつける。「守破離」の中で最終段階は「離」ですが、じゃあ「守」が必要ないかというとそんなことはありません。そういう意味で、ロジカル思考、デザイン思考、アート思考にも似ています。重要なのはこれをフェーズごとに成すことであり、「守」を通るからこそ自分らしい型=「離」への道が見えてくるのです。
アート思考の話をした時に「そもそも自分らしさというのが見つかっていない」という方がいます。そういう時、「自分」がわからない方には、まずは徹底して型通りにやることや徹底して誰かをお手本にコピーすることをおすすめします。「守」から始めるわけです。
そうして「誰かの型」をなぞりまくってみると、必ずその型の通りにはできない部分や、どうにも我慢できない部分というのが出てきます。その「違和感」こそが「自分」を見つけるヒントなのです。僕自身、かつて大企業にて「ロジカル思考」や「デザイン思考」をたっぷりやってきて、失敗しまくり、限界を感じてもがく中で、いまのような働き方や思考にたどり着きました。
しかし同時に、「守」はあくまで「離」のためにある、ということを忘れない、というのも重要です。「守」を神様のように扱わないこと。日本の教育では「型」を教えられると、そこから逸脱したアイディアはすべて叩かれる事も多いのですが、そもそも「型」はやがて捨てられるべきものだと考えるべきだと思います。
②価値を広げるフェーズ
こうして「自分」起点の価値を見つけたとします。そうしたら、次に右の三角形のフェーズにうつります。
左型の①のフェーズでは(みんなに通じる)「論理」から(わかる人はわかる)「共感」へ、そしてさらに(自分だけの)「衝動」へと個体化してくるために、他の人に伝わりづらいものになってもきます。よく、スタートアップでは「初期に大事なのは9割がいいと思うものではなく、100人に1人の熱狂」ということが言われますが、「これまでにない価値」は最初は理解されず、「点」のようなものになりがちです。
以前こちらの↓記事でも書いたのですが、
「点」であることは悪いことではありません。研ぎ澄まされた先端だからこそ社会に「風穴」があけられるからです。
しかし、ここで注意しなければいけないのは、「点」のままでもいけない、ということです。社会を変化させていくには、それをまわりの人に届けて行くことも大事です。
これを表わすのが右側の三角形のフェーズです。アート思考的に研ぎ澄まされた「点」は、「自分」にしか理解できない「一人称」なものにもなり得るのですが、これを広めていく時には相手に伝えて共感を得る「二人称」、そしてさらに共通の言葉で伝わる「三人称」へと広げていくことが必要です。
スタートアップで例えるなら、シードから投資家などの理解と応援者を得て組織を拡大させ、上場するプロセスとも重なります。そして上場することにはスタートアップもマチュアになり、「ロジカル思考」や「仕組み化」が支配的になります。
そして「初心」
ロジカル思考が支配的になった時、アート思考へ向けた「研ぎ澄まし」がふたたび必要になります。
かつてはベンチャーだった企業が大企業になり、ロジックや前例主義に陥ってしまい、ユニークバリューを発揮できなくなっていることがよくあります。
これを僕は「死んだメタファー」と似た現象だと考えているのですが、たとえば「あの人はカナヅチだ」という言葉を聞いた時、「カナヅチ」が定型句化しているため、僕らはそれを詩的な表現だとは感じません。一方たとえば「あの人は金木犀だ」などという言葉を聞くと、そこには詩的な響きを感じます。実は「カナヅチ」もそれが生まれた段階では詩的なものだったはずですが、何度も使われるうちに「化石化」し、そこからは詩のいきいきとした響きが失われるのです。
ロジカル思考を「説明文」、デザイン思考を「コピーライティング」、アート思考を「詩」によくたとえますが、②のフェーズではまさに、アート思考からロジカル思考へと向かい、誰にでも通じる万人向けの「定型句」になるに従って、詩的な生き生きとした力が失われてしまうのです。
ですから、このような状態になった時には再び「角質化」「化石化」した部分を見直し、捨てることで、ふたたびユニークバリューを研いでいくことが重要なのです。
つまり、①で尖っていき、そこから②で広がっていくプロセスは、広がった後、また研いでいくプロセスへと入り、広がったり尖ったりを繰り返していくべきものなのです。
この「研ぎ直し」は能の「初心」にたとえられます。世阿弥は「時々の初心忘るべからず」と言っていますが、定型化は芸の熟練でもありつつ、「自分」らしさを見えなくするものでもあるため、「時々の初心」をすることが重要なのです。
多くの大企業ではこの「2回めのL」の状態でとどまってしまっていることが多いのですが、実はここから「研ぎ直し」をすることは初回以上に難しかったりします。なぜなら②広がっていくプロセスで、多くのものを手にしてしまっているからです。貧乏な時よりも一度金持ちになってからそれを投げ捨てる方が勇気がいります。しかし手放した方が気持ちが軽くなり、自分らしく生きられるようになることがあるのです。
ちなみに、フェーズごとに思考が変わるとはいっても、アート思考が全く無くてもいいとは考えていません。それは「コア(核)バリュー」であり、ちょうど鉛筆の芯のようにその人やその企業を貫いているものだからです。
ホンダしかりSONYしかり、Panasonicしかり、今は大企業になった企業も、かつてはクレイジーな熱量で突っ走っていた「アート思考」的な企業でした。
しかしそんなクレイジーな熱量がいつの間にか隠れて見えなくなってしまい、ロジカル思考や「死んだメタファー」が優位になりすぎたために閉塞してしまっているのが今の日本企業ではないでしょうか。そうした閉塞感を打破すべく、だからこそいま「アート思考」が必要だと布教活動をしているのですが、それは実は新しい理論ではなく、ある意味では原点回帰というか、本来もっている力を引き出すことだともいえるのです。
「子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。」(パブロ・ピカソ)
アーティストは自分だけの作品workをつくりだします。そもそも働くということや「仕事work」は与えられたりこなしたりするものではなく、「自分らしい、自分ならではの価値」を発揮することのはずです。アート思考で研いだユニークバリューを根幹に、フェーズごとにいろいろな思考を切り替えながら動的にworkしていくことこそが、ビジネスにおけるアート思考の使い方だと考えています。
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