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そのネット広告はいったい誰に向けたものなのか?

先日、あるウェブサービスの会社の人と話をしていて「情報にお金を気軽に払ってくれるのは誰か」という話題になりました。その人が断言するように言ったのは「情報リテラシーの高い人は、ウェブの情報やコンテンツにあまりお金を払ってくれないんです」。逆にリテラシーの低い人ほど、じゃんじゃんカネを投げ込んでくれるのだとか。

明確なエビデンスのある事実でもないようなので「話半分だなあ」とは思ったのですが、なるほどと感じたのは、その人が続けて言った「だからネットの広告も、情報リテラシーの高い人には刺さらなくなっている」という指摘。

リテラシーがあり情報感度の高い人は、インターネット上を流れる大量の情報をさばく能力に長けている。だから目の前にある情報に飛びつくことはなく、じっくりと構えて情報を見極めようとする。だからこの層の人は「情報にお金を払わない」というよりは、「目の前の情報にすぐに飛びついてお金を払ったりしない」ということなのかもしれません。

ネット広告に対する姿勢も同じ。ネット媒体がもの凄く増えた結果、広告出稿量も膨大になっている。ひとつひとつの広告に予算をかけられなくなった結果、広告の質は当然下がるしかないわけで、そういう低品質の広告がリテラシー層に刺さるわけがありません。自然とネット広告は「何にでも飛びつく低リテラシー層向け」に傾斜せざるを得ない。

これは最近のネットメディアでやたらと増えてきた、「3秒後に報酬を獲得できます」と強制的に表示される広告にも通じるものがあります。「広告を見ることで、記事を読めるという報酬が得られる」というアイデアはなかなかすごいと思いますが、これって要するに「広告を見るという行為を苦役としてみなす」ということを、広告配信側が認めてしまっていることでもあります。

かつて広告制作がメディアの世界で花形だったころがありました。1980〜90年代という、おおむねバブル経済の時代です。糸井重里さんがコピーライターとして知られていたころです。この時代には、広告そのものが素晴らしいコンテンツであり、広告がエンタテインメントでもあり、そういう広告を作っている人たちは素晴らしいクリエイターだと社会に認められていたのです。

しかしそれから幾星霜。広告はインターネットの情報洪水の中で、ついに「苦役」「見たくないもの」になってしまいました。お金に余裕のある層は料金を払ってYouTubeプレミアムなどの広告なしサブスクに加入し、お金の無い人たちだけが強制的に広告を見させられる。「広告を見れば記事が読める」モデルは、いずれはスマホのカメラなどで視聴者の顔を監視し、視線の先を広告に固定しないと広告を見たこととして認めない、というようなところにまで進むかもしれません。

そこまでして強制的に見せなければならない広告というのは、いったい何なのか。それはいったい誰に届けようとしているのか。こういう世界で、リテラシーの高い層やお金に余裕のあるアッパーミドル層に向けた広告とは存在しうるのか。いろんな問題が浮き彫りになりつつあります。

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