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複雑な状況をそのまま受け入れるために ー 前向きな行動原理

のっけから結論のような物言いで恐縮ですが、世の中の多くの議論(争い)は大きく2つの傾向に分けられます。1つ目は、同じものを違った角度からみることにより、見ている対象を違ったものと判断することから発生する議論です。例えば、Aさんは上からみて「これは丸だ!」と主張し、Bさんは横から見て「いや、長方形だ!」と言い張ります。どちらも正しいです。間違っていません。しかしながら、対象の全体像を正確に表現しているとは言えません。なぜなら、これは円柱だからです。「群盲象を評す」という表現は、このケースにあてはまります。

円柱をみる

この場合、「あっ、もう一方からの視点については気づいてなかった。ごめん」とAさんが言えば、「いや、お互い様」とBさんが言うことで平和裏にことが済むこともままあります。目から鱗が落ちるのも、こちらのパターンが多いかもしれません。

2つ目は、似たような2つのものを「2つは違ったもの」とするか、「2つは同じもの」にするかとの議論です。以下の2つの形を同じ丸というカテゴリーにするか、真円と楕円は違うものとするか?です。

楕円と円

1つ目が見る場所や立場あるいは想像力を問題にするのに対して、この2つ目は定義あるいは物差しという考え方の問題になります(ここでは、あくまでも比喩として円を用いています)

つまり1つ目の議論についても、あるアングルからみる習慣が多いかどうかという文化差もありますが(森をみるか木をみるか、あるいはハイコンテクスト文化かローコンテクスト文化)、2つ目の議論の方が文化コンテクストに左右される度合いがより強いでしょう。そう、多くの争いはここに終始します。

言うまでもなく、真円も楕円も円であるとの共通性を重視する人もいます。それによって「視野の広い人」「寛容な人」との賞賛を受けるのですが、他方、「どうして楕円と一緒にするのだ?なんと鈍感な奴らだ!1点からの距離が等しい点の集まりだけが円なのだ」との他者批判や不満はいつもくすぶります。「文化が違うから仕方ないか・・・」という諦めがしずらく、「文化が違うのは分かったけど、こっちでいきたい」と言い張るのです。

また、人は時と場合によって定義を緩めたり厳しくしたりするものです。ある時は「これは楕円だ」と語り、別の機会には「今回はこれは円という括りでみていいんじゃないの」と解釈するといった具合です(だから、定義の主導権をとるのは、ゲームを有利に運ぶに必須項目とされるわけでもあります)。更に言うなら、以上の2つのことが、必ずしも単独で生じるのではなく、2つが同時に複合的に生じるのが、多くの議論や争いのネタです。

さて、第二次世界大戦に関する見方も一つの例になります。戦争体験者が減れば減るほど、戦争に対する視点も集約化が避けられないでしょう。「いや、こういう立場からは別に見えた」との多くの声が消されていきます。その一方で、「見せたい自分に有利な歴史」をつくっていこうとの意思がでてきます。それによって、ある状況に関する解釈が真逆になっていくこともあります。上記の2つの論点を意図的に利用するわけです。逆にいえば、それゆえに上記の2つの論点を常に意識して「今ははっきり見えないかつての事実」をマシに見る努力が求められるわけです。

終戦は相手国のある外交事項だ。大本営が陸海軍に停戦を命じたのは8月16日であり、8月15日はどの前線でも戦闘が続いていた。国民統合の共通体験として玉音放送が重視されているのかもしれないが、内向きの論理と言える。

<中略>

モノやカネが自由に国境を越えるグローバル社会では、国家が国民を統合する枠組みとして歴史はますます重要になる。事実より感情を優先し、自国に都合の良いように歴史を利用することを「歴史のメディア(広告媒体)化」と呼んでいるが、世界的にこうした風潮は強まっている。

振り返ってみると、この何十年かわかりませんが、ことを単純化するトレンドが強かったように思います。それを支持する表現には事欠かず、「誰にでもわかるような説明ができない場合、そこには嘘がある」「通用するロジックはシンプルである」「単純化してこそ多くの人に通じる」などなど数知れずあります。

「難しい表現には、それなりの理由がある」という言葉は、明瞭な記述ができないことへの弁解にしか受け取られない。根底には民主化や大衆化あるいは大量生産への適合化のような流れもあったのかもしれません。機械論的な見方が優勢だったからとも言えます。殊にスケールとそれにあわせたロジックといった場合、そのスケールがある程度以上のサイズを想定しているから、複雑なロジックを吸収できないということでしょう(最近、とみに強調される分散型システムとは、この問題への解決策としても提案されます)。

しかも、これだけ多くの人が「現代ほど複雑な世界はない」と実感しながら、あいかわらず「単純化することが一番大事」との信仰から抜け出ていないようにみえます(ところで、冒頭の2つの分類は単純化でしょうか?笑)。

ですからデザインが時代に求められるアプローチでありツールだと言われ始めたのは、あらゆることを二項対立で捉える(「円だ!長方形だ!」「楕円は仲間から外せ!」)スタンスからどう脱皮させるか?との苦闘に授けられたベターな贈り物と考えられます。極端な対比の間にある境界線を消していき、グレーゾーンをグレーゾーンとしてそのまま受け入れる文化をもち、そのなかでどう状況を前進させるかを行動原理としてきたのがデザインだからです。

それはある意味、アートも同じです。ちょうど良い例があります。友人のアーティストである廣瀬智央さんの作品が、8月21日から東京の新有楽町ビル内で展示(⼤丸有 SDGs ACT5×東京ビエンナーレ2020/2021 アーツプロジェクト)されています。トップの写真です。以下にある説明を読んでみてください。

2020年のアーツ前橋「廣瀬智央 地球はレモンのように青い」展のために制作された作品《フォレスト・ボール》。直径2.5メートルの球体の表面は、まるで植物が繁茂する森のように人工植物によって覆われています。遠くからだと巨大な苔玉のように見えるが、あくまでも人工物によるオブジェです。“人工”でできた“自然”という二つの相反するものが、球体という地球や宇宙を想起させる形になっています。普段当たり前のように接する“人工”や“自然”という概念を改めて問い直し、意味を転倒させることで新たな想像が広がっていきます

上記にあるアーツ前橋における展覧会は既に終了していますが、以下の写真にあるレモンの展示について、ぼくは次のように書いたことがあります。

レモンの展示は床におよそ3万3000個の本物のレモンを並べ、その上を歩けるガラスの「ステップ」がある。この会場に足を踏み入れると爽やかなレモンの香りが包み込む。しかし、会場には人工的に抽出されたレモン精油も散布されており、嗅覚がより刺激されるような仕組みになっている。一方、レモンにも延命するための防腐剤が使用されているのだ。美しさの裏に自然のものと人工的なものが入り組んでおり、世界の「複雑さ」や「不確かさ」について暗に言及している。 

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ぼくたちは、どのアングルでどう定義したときに、自然と称し、人工と称するのか?との問いをすることで、冒頭に挙げた2つの議論のネタを乗り越える術をもてるのではないか、ということです。誰かが決めたことに従順になるのではないアプローチを探らないといけません。

複雑な状況であるからこそ、多数の視点をもつこと、多数の定義と解釈が可能であると考え、そこにポジティブな方向を見いだそうとするのが「ありうる」道です。その前提として、前述したように、複雑さをそのまま受け入れることができるサイズをセットするのが条件になります(大きなサイズを変えずに単純化を狙うのではなく!!)。

自分がよく知っていることであれば、複雑さを受容できます。少なくても、誰でも自分自身の人生の複雑さはそのまま受け入れ、自分自身の家族の複雑さからも多くの人は逃げ出さないです。(経営破たんしたと報道された他社には厳しい批判をしながら)自分の勤める会社、あるいは地元となる自治体の複雑さへの対処を「致し方ない」からスタートするのです。

これを自らの状況に対する判断の甘さとするのではなく(およそ自分や身内には甘い点数をつけると自己批判するのではなく)、あるレベルまで「複雑さを飲み込んだ」として次なるステップを踏む根拠とする。ここに(他人の人生ではなく)自分の人生を生きる醍醐味があります。


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