Mind my own business.  〜「手放す」からはじめるアート思考

お疲れさまです。uni'que若宮です。

先日書いたジェンダーギャップの記事を引き続きたくさんの方にお読みいただいているようで、

取材も沢山いただきとてもありがたいです。(先週だけで3回もやほおにでました(((((自慢))))))


ところで、SNSでの反響も大半がそうですが、実は取材いただく編集や記者の方は、なぜか女性ばかりです。これもこれで不思議なのですが、それなのでというかお話すると、どうしても「女性のため」「もっと女性の能力を」っていう文脈に話がいきがちです。でも実はあの「辞退」宣言って、「女性のため」とか社会課題というより結構「自分の都合」みたいなところもあるというか、むしろそっちが強かったりもするんですね。なので今日はそういう自分都合な辞退の理由を、ちょっとアートシンキング的な観点からも書きたいとおもいます。


「自分でなくてもいいこと」

記事中でいうとこの部分に書いているのですが、

「あ、そうですか」とあっさり登壇者から外されることもあるでしょう。個人的に言えば仕事の機会が減ることですし、もちろん残念ですが、それで僕でなくていいくらいのイベントはそもそも多分僕じゃなくてよかった、ということだと思います(過去に明らかにコピペで名前を間違えて依頼があったケースとかもあり「これくらいの知名度で集客取れそうな人」を回してるだけということも結構あります)。いずれにしても「若宮じゃなくていい」機会なら手放して、新しい価値が増える女性や若い方に機会を譲ったほうがいい

僕が辞退しようとおもったことの理由の1つがこの「自分でなくてもいい」ということなのです。というのも、実は仕事って気づかないうちに「自分でなくてもいい」ことをやってしまっているケースが多いように思うからです。

この辺のことは本にもちょっと書いているのですが、僕は企業のコアバリュー策定を頼まれることが結構あります。そのお手伝いをする時にもっとも大事にしているのは、そのバリューがその企業ならではの「ユニークな価値であるか」ということです。「ユニーク」は語の成り立ちからいうと「uni+que」。uniというのは「1つ」のことですから、ユニークとは本来「1つっぽい」ということです。他におなじもののない、ということです。あるいはそれは他とは取替えが効かない価値があるということで、「代替不可能性」と呼んでいます。


そしてこういう「価値のユニークさ」から、男性が沢山いるイベントに出るのはどうだろう、と考えてみたわけです。「男性が」とひと括りにするのはいささか単純にすぎますが、「ボーイズクラブ」と言われるように同性だけだとやっぱり結構価値観が似がちなので「他の登壇者とおなじ」が結構ある気がします。ステージ上で「わかるわかる、全く同感です」とうんうん言い合えるのはスムーズだし安心はするのですが、(登壇者が被っているわけなので)ユニークさは低く、もし全く同感ならそれってもう一人でいいわけですよね。


ところでuni'queは「複業」をルールにしている会社なので、僕自身、「複業」でも色々なことをやっています。そうすると複業してる方から相談を受けることが結構あって、

声かかると全部やりたくなって受けてるうちにパンクしちゃうのですが、どうやってうまくこなしてますか?

という質問を本当によくいただくんですね。


こういう時僕は、「自分でなければいけない価値」があるか、という基準でよく考えて、そうでもないなとおもったらやらない方がよいですよ、という話をします。

先の「辞退」宣言もそういう流れからすると理解いただけると思うのですが、たぶん自分がいなくてもあんまり変わらないものであれば、そこに出ても「若宮の価値」はそれほど強くは感じてもらえないでしょうから、出るメリットはあまり多くありません。一方で、そういうものを辞退した時に「いや、やっぱり若宮さんに」と企画や登壇者を熟考してそれでもお願いされる場合、「若宮の価値」はより高くなります。


「自分」起点とは「やりたいこと」ではない。

これ、結構大事なことなのですが、アート思考で「自分起点」と言うと勘違いされがちなのですけど、単に「やりたいこと」を優先するのとはちょっとちがうんですね。

アートシンキングにおいては「自分」というのはいびつな形をしており、更に動的なので、日頃自分がおもっている「ありたい自分」や「あるべき自分」とは実は別物です。むしろ「ありたい自分」や「あるべき自分」は思い込みやしがらみのことが多いので、それを捨てることが重要です。「やりたい」「やるべき」と思っても、実は「自分でなければいけない価値」がないことが実は多いからです。(レオナルド・ダ・ビンチは「自分の判断以上に自分を欺くことはない」と言っています)


「やりたいこと」ではなく「自分でなければならない価値」があるかどうかで取捨選択すること。「自分でなければならない価値」を出せる場所に身を置くと、そもそも他と取替えが効かないので価値をリスペクトしてもらえますし、自分としても自分らしく実力がマックス出るので、2乗で価値が高まります。またそういう場に行って自分のバリューを実感できるとさらにそのバリューに自信がつき、以降もさらに増幅されていきます。

逆に「自分じゃなくてもいい場所」だと「自分じゃなくてもいいくらいの価値」しか出ないので勿体ないですし、マックス100%じゃないのでどうも不完全燃焼に終わります。そしてさらに、「本来は自分じゃない人のほうが価値が出せた機会」を奪ってしまうデメリットもあります。


つまり「自分でなくてもいい場所」に出ていくことはメリットが少なく、かつ他の人にとってのデメリットもあるのです。であれば「辞退」するほうがよいかなと。

そしてその分の時間を機会が少ない方に譲ったり、「自分でなければならない場所」のために使ったほうがいいと思うのです。


そのリプライ、必要ですか?

あと、すごく日常的なことで最近心がけているのが「リプライやリツイートの断捨離」です。

たとえばなにかバズったり炎上していたりすると、バーっとRTやいいね!がつきますよね。勿論それは注目度のバロメーターではあるんだけれども、もうすでに沢山他の人がいっているところにわざわざ自分がなにか付け加えることがあるだろうか、と思うわけです。

いわゆる炎上やバズがあった時、リプ欄を見てみると「なぜか極めて同質性が高い」ことが多いように思います。建設的に意見がかわされていることはほとんどなく、「何考えてるんですか、あやまってください」みたいな正論&正論&正論、もしくは「全く同感です」という賛同&賛同&賛同。

「全く同じ」なんだったらそれわざわざいう必要もないんじゃないかな、と思ったりしますし、応援の気持ちなのだとおもうのですが、すごいバズってるやつとかはもう勝ってる感じのところに「勝ち馬に乗る」的な感じになってることも多い気もします。


そして、この同質的な「量」は時にまえにけんすうさんが書いていたように

批判している人たちは、何も悪くないんです。だから怖い。1の批判では単なる批判でも、100の批判になると気づかないうちに暴力になってしまうということが起こるのです。

する方は小さく触れたり撫でたりくらいのつもりでも、受け手にとって暴力性を帯びることがある。


つまり「もうだいぶ燃えさかっている場所」にわざわざ自分が入っていくことはメリットが少なく、かつ誰かを傷つけるデメリットもあるのです。であればやめておいたほうがよいかなと。

そしてその分の時間をまだ少数派の意見の応援や、「自分ならではの意見」を伝えるためにつかったほうがいいと思うのです。


「手放す」からこそ「手に入る」

このように、ひとは日々の仕事や生活の中で「本当は自分じゃなくてもいいこと」で結構「手一杯」になっていることが多い気がします。

アート思考では「余白」も重要なキーワードですが、「手一杯」というには全く「余白」が無い状態です。こういうパツパツな状態ではなかなかクリエイティブな発想は出ませんし、なにかセレンディピティ的な出会いがあっても「手が塞がっている」のでそれを掴むことができなくなります。

なにかを「手に入れる」ためには、一度「手放す」ことが必要なのです。

ジェンダーギャップの記事の結びでは

自分の席に固執しているうちに、船全体が沈没仕掛けている。「優先チケット」をいま手にしているみなさん、その何割かで手放して多様性と新しい可能性を増やしていきませんか。

と書きました。

この事に対し「チケットを譲ってくれてありがとう」というお声も女性からいただくのですが、実は「手放す」のは「女性」を助けてあげよう、という人助けの気持ちからいっているわけではありません。

「他分」を剥いで「自分」に出会い直す、というのですが、これからの「働き方」においては、「他分(=他の人の分)」をなるべく手放してその分「自分(=自らの本分)」の時間比率をあげていくことが大事なスキルになってくると思うのです。


こういうことをいうと「いやいやそれは起業家とか自由に自分の働き方を選べる人だから言えることでしょ」「場も仕事も選んでらんないし、そんな余裕ねえわ」という反論もあるかもしれません。

でも、自分もかつてそうだったのですが、実際よくよく考えてみると、わざわざ「自分でなくてもいいこと」に首を突っ込んで疲弊しているケースが結構あるのです。それは本当に代替不可能なほどに「あなたしかできない仕事」でしょうか?


あるいは逆に、「やりたくはないけど他にできる人が誰もいないんだよ」ということもあるでしょう。本当に他にできる人がいないならそれはやはりユニークな価値なはずですが、もし本当に場を選べないのだとしたら、なおのことせっかくやるのだからそこでもっと「自分でしかできない価値」を出すことを考えるべきだと思うのです。


「じぶんの時間」を増やそう

いま、100分de名著という番組でミヒャエル・エンデの『モモ』を紹介していて、

これを機会に子供と読み直してみたのですが、『モモ』の中にこんな一節があるのです。

人間はひとりひとりがそれぞれじぶんの時間をもっている。そしてこの時
間は、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ


あくせくと働いたり、スキマ時間にまでSNSを気にしたりしているうちに、「じぶんの時間」は少なくなってしまいます。「じぶんの時間」、「ほんとうにじぶんのものである」「生きた時間」を増やしていくこと。そのために「他分」を「手放す」こと。


英語に「Mind your own business」という言い方がありますが、これは「要らぬお世話」という意味です。それよりはもっと、自分ならではの価値や仕事=my own businessのことを考えてみませんか?


あっ!そ、そうだっ!(ぎこちないつなぎ)
「自分ならではの価値や仕事」っていうのに興味がある方にちょうどぴったりのイベントがっ!!ちょうど来週じゃんっ!なんて偶然だっ!

毎回アートシンキングのレクチャー+体験型のアートとの出会いをお届けする『アートシンキングの学校』、#02回は僕がこれまでもっとも注目してきた現代美術家・高嶺格さんを迎えます!多摩美で学科長として教鞭も取る高嶺さんから「自分ならではの価値や仕事」のつくり方も聞けるイベントになるとおもうのでぜひ!


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