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遊びから政治へ ーミュンヘン市「子ども青少年フォーラム」の可能性

スタートアップが主体となって議員・自治体と市民をウェブサービスでつなぐ「シビックテック」が日本でも活発になっているという。市民の政治参加のハードルをデジタルツールが取り除いていく、注目すべき動向だ。

このニュースを見て、およそ10年前に参加したシンポジウムのことを思い出した。これはデジタルツールを使っているわけではないが、子どもたちと議員・行政職員とNPOとが、子どもたちの発見した問題とアイデアについて議論し、提案をもとに実際に遂行する、政治参加のプログラムについてのシンポジウムだった。

今振り返りながら、このシンポジウムで語られていたことは非常に重要だと感じた。シビックテックによって市民の声を議員や自治体になめらかにとどけられるようになった次には、市民と共によりよい地域・社会のアイデアを共創していくプロセスが重要になるだろう。その際に、その共創プロセスに「遊び心」をくすぐるしかけをどれほど持ち込めるかが、ぼくは鍵だと思っている。なぜならば遊び心のないところに創造はなく、もし遊び心がないならばその創造は陳腐なものだからだ。

まさにこうした政治参加のプロセスが遊びのようになっている事例が、この10年前のシンポジウムにあったことを思い出したのだ。

*本稿は、ぼくが自分で書いた10年前のblogを大幅に加筆修正しながら再掲するものである。加筆修正する際に、事例が紹介されている記事(月刊「社会参加」2017年10月号における卯月盛夫教授の特論)を参照した。推測を含む記載が多くあることをあらかじめご了承いただきたい。

ミュンヘン市の「子ども青少年フォーラム」

2014年8月20日(水)、練馬まちづくりセンター主催のシンポジウムに参加させてもらった。その主軸は、ドイツ・ミュンヘンで行われている「子ども青少年フォーラム」について、その運営を担当されている「子どもの参画専門員」であるヤーナ・フレードリッヒさんの講演であった。

講演はすでに終了しています

ドイツでは「子どもの権利条約」に則って、遊び場を新設・改築するときは必ず子どもの意見を取り入れることが法律で制定されているという。こうした背景からおこなわれている「子ども青少年フォーラム」は、遊び場や図書館のような公共施設、交通や地域コミュニティの課題など、様々な課題について7~16歳の子どもたちが議論し、大人に議会で提案し、可決されれば大人がそれを実現させるという。

ヤーナさんたち「子どもの参画専門員」は市役所の公務員であり、行政がこの活動をNPO法人「文化と遊び空間」と協働しながら主催している。

まち歩き、議論、フォーラム

おおまかなプロセスは、こんなかんじだ。

まず、広報活動。リーフレットを配布し、「子どもの社会参画」の意味を子どもたちに伝えていく。

そこから、NPOのメンバーが学校に出張授業に行き、子どもたちとまち歩きと議論を行う。

まち歩きでは、様々なキットの入った地図やビデオカメラが入ったスーツケースを持って、街を歩き、観察し、街に住む人に取材をするなどを通して問題を発見していく。

そこから学校に戻って、まちの様々な課題について議論が行われる。問題を解決する具体的な提案を子どもたちがつくっていく。たとえば公園の改築案や、交通事故の問題解決についてなど。

そしてフォーラム。こうしてつくられてきた提案を審議する。大人の議員もいて、子どもたちに現状を説明したり、子どもたちの提案について質問をしたりする。厳しい質問もあるが、ファシリテーターが子どもが答えやすいようにさばいていくという。

こうしたプロフセスを経て、子どもの提案の可否が問われる。可決された提案は、その場でその担当議員もしくは担当職員が決められる。「実現させます!」ということを、大人が子どもに約束する。

こうして、子どもたちのアイデアが取り入れられることで子どもが楽しく暮らせる街になり、また自治の感覚が育まれることでよりよい民主主義的な政治が市民によって行われることになる、というわけだ。

「子どもの社会参画」って説教くさいしつまんなそう

とはいえ、日本語で「子どもの社会参画」と聞くと、なんとなく説教臭い感じがするし、大人の都合に付き合わされてる子どもの姿を想像してしまう。

ぼくが最初にこの言葉を聞いた時、中学生のころにあった「子ども議会」のようなものを思い出した。役所の議会で子どもたちが遊び場の課題や、いじめの問題などについて作文を発表するというようなイベントだったと思う。

その作文は提案ではなく、なにか施策として実現されるわけではない。学級委員的な「いい子」が学校の代表として選出され、予め先生とつくった作文を読み上げるという感じのやつだった。子ども自身が楽しくてやっているというよりは、大人の都合に我慢して付き合っている、それをやると学校代表っていうステータスになるというものだった。

しかし、ミュンヘンの事例はそうではなかった。写真で見る子どもたちは楽しそうに、そして責任感のある表情をして活動をしていた。なぜだろうか?

その謎をとくカギは、講演と、その後の懇親会でヤーナさんに直接聞いた話にあった。

*ここから先は、ぼくの解釈と仮説を含むもので、実際のものとは異なる可能性がある

誰かと共に生きる物語世界へ

まず最初の驚きは、子どもに社会参画の意味を伝えるリーフレットにあった。「社会参加にはこんな意味があります」と説教するのではなく、子どもが社会に参加するということの意味を、書き込み式のゲーム絵本によって伝えている。

シャイで自分の意見があまり言えないと主人公を、読者に置き換えるために名前、性別、性格を書き込む。そして主人公の友だちとしてドラゴンが登場する。これは、子どもの「不安」「ワクワクする気持ち」「言葉にならないアイデア」など、言語化されない感情を象徴している。その都度、読者は自分の感情を空欄に書き込み、このドラゴンとうまく対話しながら、友だちと付き合い、環をつくっていく過程が物語になっている。

誰もがもつ言語化できない感情を共有しながら他者とともに生きていく。「参画」という政治的な意味合いをもつ以前の、人間の社会のコンセプトをこの絵本によって、しかも書き込みによって参加させながら伝えていく。ここからすでに、子どもたちによってつくられる物語は始まっている。

以前、ライプチヒにある絵本工房「BUCH KINDER」に訪問したことがある。そこは、子どもが創作した絵本を出版する工房だった。そこで子どもたちは、大人や友達との関わりの経験をもとにファンタジーを創作していた。ドイツにはファンタジーと政治をつなぐ文学性が土壌としてあるのだと感じる。なるほどミヒャエル・エンデの育った国だ。

「政治の仕組み」を「遊びの仕組み」に読み替える

そして2つ目の驚きは、町で調査した問題の解決策について議論するワークショップだ。ぼくが想像していたような、子どもが順番に手を上げてお行儀よくしなきゃいけない感じとはおよそ違った。

テーブルにはなんでも描きまくっていい模造紙が敷かれ、ペンやクレヨンなどあらゆる画材、粘土やブロックなどのあらゆる材料が用意されている。どうやら空間もパーティー感たっぷりで、ジュースやお菓子もたっぷりらしい。子どものテンションをあげるための空間が贅沢に用意されている。

そして進行はワールドカフェみたいに5つの議題を5つのテーブルで行うという。参加する子どもたちは順番に巡っていく。きっと、とりとめもないことをぎゃーすか言い合ったり、絵を描き殴ったり、粘土で人形劇したりするんだろう。

ここでは、問題を定義し、解決策を考え、提案していく「会議」「議会」という大人の仕組みを、子どもの世界、つまり遊びの文法に読み替えて展開されている。会議なのかパーティなのかわからないこの空間は、町で発見された問題をめぐって、混沌とした遊びの世界から立ち上がるアイデアを待っているのだといえよう。

「それってこういうこと?」大人がさしだす言葉とかたち

そして、3つめの驚きはこのワークショップにおける大人の関わり方だ。

ぼくの想像では、子どもがリーダーシップをとってまとめていけるよう、大人は引いて見守っているんだろうと思っていた。ところが、このワークショップには大人がガッツリ参加する。

ワークショップの最中、図書館なら司書さんが、公園なら建築家が、それぞれテーブルを注意深く観察している。そして何度目かのローテーションののち、子どもたちの意見/表現を読み解き、つなぎあわせたアイデアを「それってこういうこと?」とスケッチを描いて提案する。

子どもたちの、点在するバラバラな意見/表現を、プロフェッショナルである大人がつなぎ、言葉やかたちを与え、高次の統合を遂げる。それを見て、「そうそう!」「違う、そうじゃない!」「ここはこうであーで」など、よりディティールについて議論が深まっていく。デコレーションは得意だが、土台・枠組みをつくるのが苦手な子どもに、やわらかい枠組みをさしだし、やりとりをしながら「提案」として練り上げられていく。

街に出て遊ぶ

そして、4つ目の驚きは、街に出て行うまち歩きだった。子どもたちと一緒にもっていくスーツケースの中には、カメラ、マイク付きのMP3プレイヤー、地図、写真を出力するためのプリンター、スケッチブックやペンなどの画材などが入っている。そしてそれらの使い方を説明するハンドブックも。

公園の利用状況について調べるために、遊んでいる様子の撮影や利用者へのインタビューを行う。コミュニティの調査の場合は、地図にマッピングをし、トルコ系移民の人はネコ、高所得者の人はクマなど、スタンプでキャラクター化していく。ハンドブックにはそうした使い方が書かれているそうだ。まち歩き自体がある種のゲームでありごっこ遊びであるようだ!

そして、まち歩きの遊び性をつなぐように、フォーラムでの発表では、大人みたいなパワポのプレゼンではなく、劇をつくったり、歌をつくったり、時にはラップで表現することもあるようだ。そんなのほとんどの子どもは恥ずかしがってやりたがらない。一体どうなっているのだろう。一度、視察にいってみたいものである。

ビッグデータが可視化できない声を生む

さて、ここまでミュンヘンの取り組みをみてきた。

民主主義において、市民の声にどう応答するかが議会と行政の主な課題だ。多様化・複雑化する市民ニーズの分析においては「ビッグデータ」と「AI」の活用が、それらのニーズに対応する解決策の創出には大学・企業・行政・NPOの連携を通じた「オープンイノベーション」が有効な手段として掲げられている。市民の声を議員に届ける「シビックテック」も一つの手段だろう。

しかし、データで可視化できない市民の声、とりわけ子どもの声を可視化するのが、このミュンヘンの取り組みに見られる「遊びの力」なのではないだろうか。

ファンタジーによって社会参加を意味づけながら、遊ぶように街を歩き、造形遊びやごっこ遊びを通じて遊ぶように地域課題について考え、解決策を編み出していく。こうして「遊ぶように」活動するうちに、自分たちが考えてもいなかった声/アイデアが表現されていくのだろう。

遊びの世界と、社会問題の世界を行き来する

また、こうした遊び心から生まれた声/アイデアを、議員や行政職員に届けるために「翻訳」する「子どもの参画専門員」の存在も重要である。

議会や行政にとって有用であるように子どものアイデアを矮小化するでもなく、荒唐無稽なアイデアを放任するでもない、子どもと大人の混ざりあわあない世界のズレの狭間に立つ存在が、この取り組みの鍵を握っている。

遊びの世界の面白さを存分に知り、その世界にひたっていながらも、同時に社会の問題を深く見つめ、その問題への思考を続けている。そんな人がきっと「子どもの参画専門員」には適任なのだろう。

このように表現すると、国内でぼくが演劇や美術などさまざまなジャンルで見てきた、子どもとワークショップをするアーティストたちを思い浮かべる。彼らは単に子どもと上手に遊ぶだけでなく、政治的・社会的・環境的問題を見据えながら、その視点でも子どもとの企画に携わっている。日本で「子どもの参画専門員」を組織するなら、何組かのアーティストをアサインするべきだろう。



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臼井 隆志|Art Educator
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