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「時間がかかる」ことを積極的に評価する世界に踏み込む。

日本に滞在中です。

この1週間、「時間がかかる」あるいは「時間をかける」ということを考えています。

服飾史研究家の中野香織さんと『新・ラグジュアリー ――文化が生み出す経済 10の講義』を出し、現在『人文知の視点から考える 新しいラグジュアリー オンラインプログラム』の4回目の参加者も募集中です。このなかで「ラグジュアリーは新しい文化をつくる」ということを強調してきました。

だが、この1週間の日本滞在のなかで、もう一つのことを強調する必要性を感じてきています。それが「時間がかかる」「時間をかける」領域を決してタイムパーフォーマンスの対象にしないとの強い覚悟です。それが徹底されたところの一部にビジネスとしてのラグジュアリー領域があります

そう再認識するに至った経緯をお話します。

センスメイキングには時間がかかる

以下はストックホルム経済大でリーダーシップを教え、『突破するデザイン』で「意味のイノベーション」を唱えるロベルト・ベルガンティが昨年のWSで使ったスライドです。

センスメイキングにはクラフト的なアプローチが必要

今週、ベルガンティは東京と愛知県の2か所でワークショップを行いました。その際、この「時間をかける」大切さを説明するに割く時間が以前より多くなりました。問題解決には時間をかけないのが有効ですが、センスメイキングには時間をかけないといけません。

ここで、ぼく自身がふと今更ながらに気づきました。ひとつ勘違いしやすのは「複雑な要素が絡むことは、それらの利益コンフリクトの調整に時間がかかりやすい」と思いやすい点です。しかし、それは問題解決における「複雑な要素との関係」の話です。

向かうべき方向を探るセンスメイキングにおけるさまざまな要素とは、人の想いや認知であり、それらが一瞬にして変化することはありません。たとえ、朝、シャワーを浴びているときに想いが急に変わったと感じられたとしても、それは前々から「あれが気になる」「あれをどうにか別の観点から見れないか」と思っていたから、ある時点で「!!」とくるわけです。

「前々」からを起点にしないといけません。だから、当然、絶対的な時の流れを必要とします

現代アーティスト・村上隆も時間をかけて変わってきた

京セラ美術館で開催中の村上隆の展覧会を見ました。日本では大規模な村上さんの展覧会は8年ぶりらしいですが、ぼく自身、彼の大規模展は10数年前のパリのヴェルサイユ宮殿とミラノの王宮でしか見たことがありませんでした。だから、欧州の人たちがワクワクした感じで彼の作品をみているのは知っていましたが、日本の人たちが村上さんの作品をどういう表情で見るのかは経験したことがなかったのです。

今回、それこそ多数の老若男女が彼の作品に魅了され、展覧会の出口の後にあるミュージアムショップで、村上さんの作品であるぬいぐるみやTシャツを一生懸命にチェックし、それらを実際に購入するシーンを目のあたりにしました。そうか!と思いました。

かつて村上さん自身、さまざまなところで「ぼくの作品の9割以上は海外で売れ、日本では売れない」と話していました。他方、日本のなかでの冷笑的なコメントのひとつは「村上さんは日本のサブカルをアート文脈でうまく海外の人に紹介し、かつルイヴィトンなどと商業的な関係を結び、本来のファインアートからは外れる」というものだったでしょう。

この状況が、この10年少々で変わったのだ、と思いました。これにはいくつの要因があると素人ながらに想像します。

一つは、日本のなかで現代アートの市場システムやアーティストのビジネスセンスとは(良い意味で)こういうもので、村上さんが特に(表現は悪いですが)「守銭奴」ではないという認識が広まったのでしょう。二つ目には、日本のサブカルが海外で広がるロジックを理解してきた、ということもあるでしょう。

このような背景に加え、村上さんご自身の生き方の変わり具合が、この展覧会で実感できたのだと思います。京都に住み、お子さんを育てている。それが今回の展覧会のテーマ曲に繋がっていたりするわけです。また、17世紀に京都を描いた岩佐又兵衛の洛中洛外図に21世紀のアーティストとして挑戦しているのです。

アーティストは自身の人生観を作品に反映するのが全うに分かるのです。このプロセスに「時間を節約する」という概念はまったく相いれないのです。

実は、村上さんの展覧会をみる前日、京都の梅小路地区という青果市場などがあるゾーンのまちの再生を進めている人たちとの話し合いに参加しました。ここでの議論のテーマの一つが、「しかるべき時間をかける」ということだったのですね。まちづくりに「時間の節約」はありえず、仮に時間の短縮をキーとするなら、ある地域の緊急の問題解決か不動産ビジネスのロジックのどちらかでしょう。これらは、住みやすさに迫るとのテーマとは若干ずれてきます。

森美術館の「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」でさらに時間に迫る

六本木の森美術館でアフロ民藝の展覧会をみて、ここまで述べてきたことに更に確信をもちます。シアスター・ゲイツもアフロ民藝にも「はて?」と思う人も多いでしょうから、展覧会によせたアーティストのメッセージをそのまま紹介しましょう。

私にとって日本の民藝運動は、民衆が生み出すものに美を見出し、礼賛するというメカニズムを理解するうえで、20年以上にわたり大事な道しるべとなってきました。米国におけるブラック・パワー運動、黒人解放運動と同様、民藝運動は、西洋文明が瞬く間に侵食してくるなか、極めて特有な伝統や歴史を大切に守り継ごうとしました。もちろん両者ともに盲点や偏り、さらには否定的な意見を抱えていたわけですが、共通していたのは、地域性を称え、美への意識を高め、文化の力を尊ぶ、揺るぎない態度でした。「アフロ民藝」とは、私の芸術の旅路においてこの2つの最も重要な運動を融合させる試みなのです。

シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝

一緒に、彼のプロフィールも紹介します。

1973年、米国イリノイ州シカゴ生まれ、同地在住。アイオワ州立大学と南アフリカのケープタウン大学で都市デザイン、陶芸、宗教学、視覚芸術を学ぶ。土という素材、客体性(鑑賞者との関係性)、空間と物質性などの視覚芸術理論を用いて、ブラックネス(黒人であること)の複雑さを巧みに表現している。2004年、愛知県常滑市「とこなめ国際やきものホームステイ」(IWCAT)への参加を機に、現在まで20年にわたり常滑市の陶磁器の文化的価値と伝統に敬意と強い関心を持ち、陶芸家や地域の人々と関係を築いてきた。近年の主な個展に、ニュー・ミュージアム(ニューヨーク、2022-2023年)、サーペンタイン・パビリオン(ロンドン、2022年)、ホワイトチャペル・ギャラリー(ロンドン、2021年)、ウォーカー・アート・センター(ミネアポリス、2019-2020年)、マルティン・グロピウス・バウ(ベルリン、2019年)、パレ・ド・トーキョー(パリ、2019年)、プラダ財団(ミラノ、2018年)などがある。日本では、国際芸術祭「あいち2022」に出展、2019年には公益財団法人大林財団「都市のヴィジョン」の助成対象者として選出され、国内でリサーチプロジェクトを実施した。

シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝

このコンビネーションから「ああ、ポリティカルコレクトネスなのね」と思ったら、あまりにもったいない。確かに、現代のアートの世界では、マイノリティーの発言力を増進するようにプロモートされることが多いです。しかし、そのレベルを軽く超えるパワーを感じることは同時に欠かせません。そうした有難さを「シアスター・ゲイツ展:アフロ民藝」で感じます。

言うまでもなく、短時間での思い付きでは決して到達しえないレベルにゲイツが行き着いている(それでないと、世界のトップアーティストにはなり得ないのですが)。彼は陶芸だけでなく、インスタレーションや都市計画とあまりに広い範囲を活動範囲にしている。ぼくはこの展覧会をアート好きだけではなく、地方創生やまちづくり、あるいはクラフトのビジネス、またまたインバウンドに関わっているあらゆる人たちが見ると良いと思います。

そして、ゲイツの表現活動をみると「時間をかけると、ここまでできる」とのリアル感ある確信を獲得できます

エツィオ・マンズィーニと銀座を散策しながら得たヒント

エツィオ・マンズィーニと週末の午前中、1時間半ほど散策しました。エツィオ・マンズィーニはソーシャルイノベーションにデザインを導入した世界の第一人者です。ぼくは、これまで彼の2冊の本の翻訳に関わりました。『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらすデザイン文化』と『ここちよい近さがまちを変える/ケアとデジタルによる近接のデザイン』です。

ぼくの滞在日程と彼の訪日日程がちょうど重なったので、昨日の土曜日の朝、銀座周辺を歩きながら雑談しました。ソーシャルイノベーションの日本での受け取られ方、デザインに対する日欧差など、文字通り片っ端から話のネタになりました。

彼は1980年代、先端的なデザインスクールとしてのドムスアカデミーのディレクターでした。彼自身はミラノ工科大学というアカデミックなところに籍をおきながら、私立の学校のディレクターとして、現場で活躍する著名なデザイナーをそれこそ「根こそぎ」と形容してよいほどに講師として招き、1989年には三菱商事との提携にも関わります。

日本においてイタリアデザインが注目されたのは1980年代以降です。殊にソットサスをリーダーとしてメンフィスが話題となったのですが、あらゆる有名デザイナーが日本の企業をクライントにつけます。マンズィーニはそのシーンをリアルに見ていました。彼が次のように言いました。

あの時代、ソットサスやアルド・ロッシ、または企業としてのアレッシなど、ほんとに多くのイタリアのデザイナーや建築家が日本で仕事をした。だが、殆どのプロジェクトはスポットと言ってよい。一番、日本の人たちの考え方に影響を与えたのはCMF(色、マテリアル、仕上げ)を主導したクリノ・カステッリだったのではないか?

おっ!です。「デザインとファッションの対話がはじまったころ。」でも書きましたが、最近、いくつかのアングルからカステッリのCMFにはぼくも再注目していたところです。要は、ものの見方、考え方の変化に強くコミットしたのがカステッリだったというわけです。

ぼく自身、カステッリにインタビューしたことはあるし、彼のもとで働いていたデザイナーたちも知っています。それらのデザイナーに共通するデザイナーの言葉が「時間がかかっても、いつの間にか、人々がある時、こういう風に考え方が変わっていたと気づくような仕事をしていきたい」でした。

なるほど。

マンズィーニは『ここちよい近さがまちを変える/ケアとデジタルによる近接のデザイン』でも、近隣のコミュニティにおけるケアをクラフトマンシップと繋げ、「ケアは時間がかかる」が前提になると説いています。こういう彼だから、カステッリを評価するに相応しいのだ、と気づきました。

マンズィーニはラグジュアリー領域にどこまで関心があるのか分かりませんが、少なくてもセンスメイキングに拘っている以上において、共通項は多いとあらためて思ったのです。

冒頭の写真は「シアスター・ゲイツ:アフロ民藝」の一角です。

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