テクノロジーとアートの「不透明」な関係? 〜アート思考的媒体論
こんばんは。uni'queの若宮です。
先日、国際的に活躍するメディアアーティストの藤幡正樹さんの展示とシンポジウムにお招き頂き、弾丸で香港に行ってまいりました。
今日はその旅を通じて、テクノロジーとアートの関係について改めて考えさせられたので、そのあたりをちょっと書きたいと思います。
アートはテクノロジーの可能性を試す?
香港アートセンターで開催されたシンポジウムは、アートとテクノロジーの関係性について議論するものでした。
To discuss and address the interdependencies between arts, sciences and technologies, and the challenges between ideas of the expanded field of interactive arts
藤幡さんの作品はジャンルとしては俗に「メディアアート」と呼ばれるものです。(「メディアアート」についての藤幡さんのお話はとても面白いのでいつかご紹介したい…)。
「メディア」とは「Medium」すなわち「媒体」の複数形ですが、これはテクノロジーと密接に関わっています。技術の進歩は文字、印刷、写真、ビデオやXRなど新たな伝達手段を産み、「新しい媒体」として変化させていくからです。
では、アートはテクノロジーとどのような関係にあるのでしょうか。シンポジウムで藤幡さんは、アートはテクノロジーを媒介としつつも、その外側へと可能性や価値を掘り下げ押し広げる、というようなことをおっしゃっていたのですが、僕もそのように考えています。
ピクサーのジョン・ラセターは
“Art challenges technology, and technology inspires art.”
といっていますが、このchallenge(可能性を試す)という単語がその感覚に近いでしょうか。
新たなテクノロジーが生まれた時、その可能性や価値がどれだけのものなのか、自明ではなく、実は技術者自身も理解していないことが多いでしょう。ドコモにいた時(その頃は3Gでしたが)これ以上回線が太くなっても中を通すものがあるのか、という議論がありましたが、8Kや5Gなど技術が更に進んだとして、果たして新しい価値は生まれるのでしょうか?
限りなく透明に近いスルー
「媒体」というものは通常、それ自体はあまり意識されません。あるものを伝達する際の「vehcle伝達手段/乗り物」であり、目的が叶えられるための二次的存在、「透明なもの」としてスルーされてしまうのです。
例えば「写真」にある風景が映されているとします。この写真を見る時、それをある種窓のようにして、我々はその写真の向こうの風景に思いを馳せます。
「絵画」もかつては「再現性」が目指され、遠近法など、出来る限り「リアル」に描くために技術が競われました。アート論的にはillusionと言われますが、私達は絵を読み取る時、しばしば(額縁や絵の表面のタッチなどは捨象し)絵を通り過ぎて「そこに描かれているもの」を見ようとします。
アートは媒体を不透明にする?
しかしアートは、時に技術の新しい使い方を提案することで、この透明な関係を壊します。
香港に行った初日、藤幡さんが客員教授をするHKBUでワークショップを見学させていただきました。学生がビデオと簡単なスクリプトを使った作品を一週間でつくる、という課題だったのですがこれがとても面白かった。
特に興味深かった学生の作品に、「男性と女性がすれちがい10mほど離れた後、お互いに振り返る様子」を撮影し作られた作品がありました。作品は横長の動画を真中から半分にわけ、マウスを合わせた片側の部分だけが再生されるように設定されていました。仕組みとしてはとても単純なことなのですが、たったこれだけでそこには新しい体験が生まれていました。男性の方にマウスを合わせると男性だけがどんどん歩いていき、まだ歩き出してすらいない女性の進むはずの"未来"を向いて振り返るのです。この時、時間のコントロールは鑑賞者に委ねられているのですが、どちらか一方にマウスを当てることしか出来ないため、男女が一緒に歩く(通常の)時間は再現ができません。左右の画面に別々の時間軸が与えられ、鑑賞者のせいでずらされてしまうのです。
また、別の作品では「ベッドで眠りこける男性」と、「イラついた様子でスマートフォンで電話をかける女性」の二つの動画を元に作られた作品がありました。こちらも仕掛けはシンプルで、マウスを動画の上に乗せると男女の動画が切り替わります。この2つは全く無関係なシーンかもしれないのですが、交互に切り替えて見るうちに、どうしても「女性が待ち合わせに寝坊している男性に起きろ!と電話をかけ続けている」というように見えてきます。
これらの例ではリアルと媒体上の表現(あるいは再現)は合致しません。そしてそのことによって「ビデオ」という媒体が持つ可能性を顕にしているのです。
通常僕らはビデオを見る時、「同じ画面の中では一律に時間が進むこと」や「前後の画像のつながりは時系列や因果の関係をもつ」というような暗黙の前提をもっています。しかし、「映画」は時系列的な単なる記録ではなく、「編集」という時間と因果をいじるプロセスによって新しい体験を生み出し、アートになったのです。
絵画や写真にも同様のことが言えます。たとえば、絵画は近代になり、印象派やキュビズムなど「再現」とは違う表現を確立しました。このような変化は印刷や写真という新しい技術の登場とも関連しているのですが、より「リアル」に近いものを記録できるようになった写真が「アートとしての写真」という独特な価値を獲得したのは、逆説的ですが「リアル」とは異なる「写真ならではの新しい表現」をつくれたからです。
もし媒体上の表現に「リアル」とは違う価値がないのであればそれは結局は「代替」にすぎず、「リアル」に勝る価値はないことになります。リアルとは違う価値が生まれた時、人は透明なものとして通り過ぎていた媒体に目を留め、その価値に改めて気が付きます。(例えば毎日通り過ぎている家のドアがどんなものか、ほとんどの人が思い出すことはできません。建築家はそのようなドアを表現に変え、ドアそれ自体に気付かせます。アートはそのような「前景化」の力をもっているのです。)
そして、テクノロジーは必ずしも媒体独自の体験を生み出せるとは限りません。そのような独自の体験を生めない技術はいずれ消えていってしまうこともあります。MDや3DTVなど、技術的には新しく一時期メーカーがこぞって出したものでも、”ならではの体験”をつくれなければ消えていってしまうのです。
媒体は双方向的?
媒体の透明性についてもう一つ述べておかなければいけないことに、媒体は鑑賞者にも作用する、ということがあります。
先に述べたように、僕らは通常、媒体を透明なものとして看過しているので、それを白紙のようなイメージで捉え、その上に自由に表現をしているように錯覚しています。ですが、媒体は実際には僕らの体験にも作用しているのです。
例えば何かを書く時、それが手書きかタイピングか、縦書きか横書きか、あるいはフォントが違うだけでも、その表現がかわってしまうのを経験したことがないでしょうか。CDという媒体が音楽を乗せていた時には、だいたい70分くらいの「アルバム」という概念があり、「作品のサイズ」はそれくらいの体感でした。この感覚はストリーミング世代にはあまりわからないかもしれません。
ここで重要なのは、技術は「表現上の制約」なだけではなく、我々の知覚そのものに作用し変容させている、という点です。
香港のシンポジウムで藤幡さんがとても面白い例を挙げていました。それはこういうものです。
木にセミが止まっている。指さして友達に「あそこにセミがいる」と言っても「どこどこ?」とわからない。そこでさっとスマホを取り出してズームして写真をとり、その友達にみせる。スマホを指して「ここにセミがいるでしょ」という。セミが「ここにいる」、これはスマホ以前の世代とはちがう知覚です。「リアル」の位置が少しずれてきているというか。
現在、香港の湾仔地区の街角に、藤幡さんの作品「Be Here」が展示されています。昔の香港の人々の写真をもとにして、そっくりなシチュエーションを俳優が演じ、それを街にARで再現する、というものなのですが、スマホを片手に彼らを探し、一緒にスマホの中に収まる体験や知覚はとても面白かったです。
ARとして召喚される”彼ら”はすでに過去の人たちであり、場所的にも実際に「そこ」にいない。それだけでなく、彼らは実際には我々と同じ時代を生きる俳優ですから、そこには何重もの意味で虚構がある。それでも、僕たちはそこでスマホを構えながら「あー、そこ!そこにいる!」といいます。「え、ここにいる?もうちょっとここ?」とか話して位置を調整しながら、「ここにいるBe Here」とはなにか、という知覚自体が変わってきます。(そしてそれを怪訝な顔でみながら通行する人々にとっては”なにもいない”のです)
テクノロジーの可能性の模索
「Be Here」はARのプロジェクトですが、すぐれて「スマホ」を使った体験の可能性の探求でもあるでしょう。
私達がなにげなくいつも持ち歩いているスマホ。それにはGPS、加速度センサーや画像認識などのセンシングの機能、プログラム処理しイメージを作りだす能力もあり、さらに撮影するための「カメラ」までがオールインされています。captureしeditし瞬時にdisplayしさらにそれを一緒にcaptureできる。これを通して世界を認識しているジェネレーションは、写真時代の知覚とは明らかにちがう知覚のモードになっている。(藤幡さんは写真を撮る行為がshootからcaptureやscanのモードに変わった、ともいいます)
媒体の可能性を模索し、このような「新しい知覚のモード」をいち早く見出して、その体験を実現することで媒体の可能性を広げるのがアートだといえるでしょうか。
冒頭に述べたように、テクノロジーの価値は自明ではありません。VRやARのサービスにはまだまだ「リアル」を代替したものか、その劣化コピーにとどまり体験や知覚のモードを変化させるに至っていないものも多いように思います。ここに新しい体験や知覚のモードが確立された時、VRやARは新しい価値を得るのかもしれない。そのためにもARやVRの人はもっとアートに触れるとよいのではないか、とアートの正客としておもっています。(余談ですが昨年の紅白のPerfumeはすごかった)
テクノロジーが「媒体」として僕らと相互に作用することで、媒体ならではのどんな体験や知覚のモードが生まれ、そこにどんな価値が生まれうるのか、テクノロジーの価値を占う、そのヒントはアートにあるのではないかと考えています。
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