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「昔はよかった」「これじゃ何もできない」という 懐古主義的精神論に潜む、責任転嫁とエゴとスキル不足

お疲れさまです。uni'que若宮です。

ちょっと今日は某SNSで流れてきた記事をみてあまりに怒りを感じたので、なるべく冷静に努めつつですが、改めてセクハラやパワハラの問題について書きたいと思います。


セクハラ・パワハラの懐古主義的正当化

怒りを感じたのはある映画監督の記事です。

記事自体はあまりにも時代錯誤で下品なので、多くの方に読んでいただくには値しないかなと思うのと、2018〜2020年とかの記事ですしいま炎上させたり個人攻撃をしたいわけではないのでここには転載しません。

その監督の記事の主張はこういう感じです。

・「インティマシー・コーディネーター」という職種があるらしいが、そういう指導がないと“濡れ場”“脱ぎ場”もできないなんてのは三流の女優だ。かつてはいい女優は濡れ場にも「耐えて耐えて」やったものだ。「熱い時代」だった。

・パワハラパワハラとうるさいが、自分の現場では、役者を追い込み、嫌がらせ、悩ませ、落胆させ、真っ白にする、そんなパワハラも普通にやってきた。

・「働き方改革」というが今までに、徹夜作業を続けて自殺した映画人はいない。労働時間を規制されてしまってはロクな作品が生まれやしない

僕も昭和の生まれなので、それぞれまあご本人の主張や理想はわからなくもありません。共感できるものでは到底ありませんが、「ああ、そういう考え方のひともまだいるだろうな」とは思いますし、こういう思想に共感出来る同性だけで集まって映画を取るのならまあアリなんじゃないでしょうか。

以前「うちの会社は飲み会を必須にしてます」と宣言した社長さんが叩かれていることがありましたが、社会に選択肢が増えたあとでならそういう思想の企業を選ぶのは自由だと思います。お酒が好きな人たちにとっては楽しい会社でしょう。

ただ、その選択肢が奪われていたり押し付けられている場合には話がちがいます。この方の場合はキャラクターもあって毒舌ブランディングしているところもあると思いますが、それを無理強いできる立場にいながらこうした言説を世の中に正当化して撒き散らすことはやっぱり問題だと思います。


強者による3つのすり替え

1)本人がやる気なのに外野がうるさい

百歩譲ってものすごく好意的にこれらの主張をとるとするなら、「本当に本人がやりたいのだったら」という留保をつけることはできます。

・「本人が本気で濡れ場をやりたいならその意思は尊重されるべきで外部からああだこうだ言われる筋合いはない」
・「辛いほど追い込まれてもそこで本人のいい演技が引き出されて、それを本人が望むならいいことではないか」
・「本人がもっと仕事にこだわりたいのに時間数だけで労働を規制するな」

これはまあ、本当に本人が本心から思うなら、そうかもしれません。

しかしこうした行為主体のすり替えはハラスメントや暴行、いじめの加害者が使う典型的な言い逃れなのです。本人がやりたくないことを環境的に強要しておきながら、本人がやりたいんだから問題ないだろう、という責任転嫁なわけです。

2)制約ばかりになって窮屈な世の中だ

これも本当によくあるすり替えです。

セクハラ・パワハラ・ブラック労働。そのどれでもこうした「自由度が減って窮屈」という言説がされます。たしかに過度な制約やルールは自由度を減らすところはあります。しかし、それが本質的な自由度の話ではなく、論点のすり替えかどうかは割と簡単にわかります。

社会的強者がいう「昔はよかった」がそれです。

この監督も記事の中で「熱い時代だった」とか「今よりいい時代だった」とか懐古主義的に目を細めています。だがちょっとまて

そらそうだろう。あんたにとっては「昔」の方がいい時代だろう。

そのために他人の人生や気持ちを踏みにじっても、自分のエゴが通せて、自分の思い通りにできるわけですから。奴隷を意のままに支配できていた独裁君主からしたら、民主主義よりも「昔のほうがいい時代」です。悪徳政治で私服を肥やしていた権力者にとっては、政治がクリーンになると「やりづらい」のです。

だから、強者が「昔はよかった」というのはほぼ「(おれにとって都合が)よかった」というエゴを露呈しているだけです。

なのにそのエゴをさもみんなのためのように一般論にすり替える。支配や横暴を被っていた人からしたら、窮屈どころかやっと少しずつ自由が持てるようになってきたところなのに、です。あんたら以外はむしろ解放されて「本当にいい時代」になってきたとこやぞ?

自由度がさがったというのは一部の強者で、社会全体としては自由度はあがっているのです。


3)これじゃいい仕事が出来ない

最後に、もっとも腹立たしいすり替えが、これを「作品のため」や「仕事のため」のせいにすることです。これがほんとうに許せない。

この監督も記事で「ロクな作品が生まれやしない」「映画をだめにしてしまう」というようなことを書いています。いやいやいやいや!!!!!!!!!!

こうした精神論で往々にしてすり替えられがちですが、作品の質や仕事のパフォーマンスとハラスメントに因果関係や相関はありません。そんなハラスメントをしなくても良い作品を生み出している監督は沢山いますし、ハラスメントをしても大した作品をつくっていない監督も沢山います

なのにそれを言い訳にするんじゃない。

これ、企業でも同じような愚痴を聞くことがあります。

「パワハラだセクハラだとすぐ言われるから、コミュニケーションもできないよ」

とかね。

おーい、でもそれってあなたのマネジメント能力の低さを露呈しているだけですよー。

ハラスメントしなきゃコミュニケーション取れない、とかブラックな環境にしなきゃチームで成果出せない、というのは単にマネジメントスキルの問題です。

「セクハラっていわれるからコミュニケーションもできない」んじゃなくて、あなたが「セクハラ的コミュニケーションスキル」しかもってないのが問題なのです。むしろもっとコミュニケーションスキルをつけられるようがんばれ。これじゃやれることがない、じゃなくてやらなきゃいけないこといっぱいあるぞ。

自分のスキル不足を棚にあげて「作品のため」だとか「仕事のため」だとかいうんじゃない。それこそ作品に失礼だろう。


良いものを受け継ぐために、見直していこう

えーと、
今回はちょっと許せなかった今回は感情的に書いてしまった感がありますが、攻撃をしたいわけではありません。

僕自身こうしたエゴやスキル不足はまだまだありますし、だからこそ都度気をつけていかなければと改めて気を引き締める次第です。無意識にやってしまっていることもあるのでなかなか難しいですが、でも出来る限り仕事に対して誠実にありたいとは思います。

懐古主義や精神論は「古き良き伝統」に結び付けられることもありますが、実はそのほとんどが「強者側」の言説です。なんとなればこれまでの年功序列社会では「古い人」のほうが「強者」でいる確率が高いからです。

そして、上に述べたようにそれってこうした言説のほとんどが結局は「責任転嫁」や「強者のエゴ」「マネジメントスキル不足」でしかないことが多いのです。こうしたすり替えに誤魔化されてしまったり、自分自身を正当化しないように気をつけたいものです。

真摯に良い作品をつくり、それを先々の時代に残していきたいのであればこそ、責任転嫁や自分のエゴ、スキル不足をそのままにせず、あり方を見直してアップデートしていきませんか。あなたが気づいていないところで、人権や選択肢を奪われ理不尽さに泣いているひとはいませんか。そういう環境をそのままにすることこそが「明日の日本映画をダメにする」のではないですか。

映画界でもやっとハラスメント対策が本格化してきましたが、まだまだハラスメントについて課題は多く変えていく必要があります。

「労働環境を変えなければこの業界に未来はない」。8月公開の映画「狐狼(ころう)の血 LEVEL2」の撮影前日、白石和彌監督は強い思いを胸に研修に臨んだ。「セクハラやパワハラにより若手が辞め、現場は年寄りばかり。悪弊が才能を潰していることは否めない」

本当の作品や仕事への愛というのは、こうした状況を自分も含めて少しずつでも変えていこうと努力することだと僕は思います。


Voicyでもお話しました。こっちのほうが若干冷静に話せてるとおもいます(笑↓


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