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五輪開催にまつわる反省を、次の時代の始まりに

東京で2度目のオリンピック、いわゆる東京2020大会が開幕した。1年延期してもなお新型コロナウイルスが世界中で猛威を振るい続ける中での開催となり、十全な開催とならなかったことは致し方ない部分もある。現場にいる大会関係者やボランティア、全国から動員されている警察官など、この状況のなか、さしたるトラブルもなく開会式を終えられたことの尽力には、通常時以上の賛辞を送りたい。

また、こうした中世界各国から多くの選手と関係者を東京に迎え入れた以上は、彼らが存分に力を発揮したうえで安全に帰国の途につけるよう、開催国の国民の一人としてそれを願わざるを得ない。私一個人として協力できることは、出歩くことを最小限にとどめオリンピック観戦を自宅で行うことだ。

新型コロナウイルスにまつわる問題はともかくとしても、開催に伴う様々な事前の準備不足や不手際が露呈しながらの開幕になってしまった。開会式の翌日にこうしたことを書くのもなんだが、今回のオリンピック開催の反省を私たちは次の時代の始まりに持って行かなければいけないと思う。開催してつつがなく終わってしまえば「終わり良ければ全て良し」とされて、それまでの問題がうやむやになることを危惧するので、あえてこのタイミングで大きく3つ今後の課題を示しておきたいと思う。

その3つとは、1)開催にまつわる不透明さ2)商業主義五輪の限界、そして3)デジタル化である。

まず、今回の開催に関する多くの不透明さが私はとても気になっている 。開催に関するIOC との契約内容もそうだし、開閉会式の演出等を担当する人選についても不透明であったと言わざるを得ないのではないだろうか。

IOC との契約内容については、このコロナの状況の中でオリンピックを開催すべきかどうかという時に、果たして誰がその開催の有無を決定できるのかが、どの報道を見ても歯切れが悪くうやむやなままになってしまっていたと感じている。 IOC との開催に関する契約は民間企業同士のプライベートなものではない。開催国に限らず参加国の国民の税金をも使って行われるパブリックな行事に関する契約である。軍事や安全保障の問題に関わる事項については秘密とされる正当な理由に当たると思うが、IOC との契約は果たしてそういった性質のものであろうか。民間企業のスポンサー契約は別として、国や自治体と結ばれる開催契約の基本的な内容は、オープンにされるべきものであると私は思う。

それが明らかにされず、うやむやのままに五輪の開催に持ち込まれた(印象がある)ことは、その開催責任が誰にあるのかはっきりしないということでもある。こうした不透明な状況が果たして現在の社会の在り方とマッチするのか、健全なものと言えるかといえば、そうとは考えにくい。

また、不透明さを感じる2つ目は、日本国内の問題になるがオリンピックの開閉会式を担当する演出家等の人選についてだ。当初の人選から二転三転を繰り返した。そもそも元々指名されていた人たちのチームが解散した理由も「大会簡素化のため」ということだが、それが解散につながる理由がよくわからない。それを引き継いだ人が演出のアイディア出しに際して不適切な言動があった点は事前にチェックできないとしても、開催直前になって吹き出した担当するアーティスト等の過去の行いに関するバッシングから辞退や解任に至ったことについては、人選の決定過程で十分に透明な選定プロセスを経なかったことに起因しているといえるだろう。

もし、こうした人々が選ばれる過程で、事前に候補者がオープンになり、反対意見・異議が述べられる機会があれば今回のような事態にはならなかったのではないか。候補者の段階で異議を唱える人がいなかった場合、後になってそれを蒸し返すようなことになったとしても、異議を呈する人が言うべき時に言うべきことを言っていなかったことになり、少なくても辞任や解任という事態にまでは至らなかったのではないだろうか。また、過去の過ちをいつまで問い続けるのか、いわゆるキャンセルカルチャーの問題もある。

こうした方法が最善か、実際に機能するものかは慎重に考えなければいけないが、ともあれ、何らかの透明性を担保し、責任者が説明責任を果たせる仕組みを模索する必要があるだろう。それによって、今回のようなドタバタ劇を起こさず、誰もが後味の悪い思いを残すことを避けうるのではないかと思う。

いずれにしても、東京2020大会に関しては「不透明さ」が大きな問題の根幹にあるように感じている。この点は今後オリンピックに限らず、様々な国際的な行事や国家的な行事において、その運営を円滑にしまた想定外の事態が起きた時にどう対処するのかということへのリスクヘッジとしても重要な課題になるだろう。

2つ目は商業主義五輪の限界である。もともとこうした商業的なオリンピックの開催方法は1984年のロサンゼルスオリンピックにその起源がある。

この時には、それまでオリンピックを開催をすることで大赤字になるなどの問題を解決する手法として導入され、その後現在までそのやり方が踏襲されてきている。

しかし、ロサンゼルスオリンピックの開催から40年近い時間が経過し、この間に社会経済の状況も大きく変った。問題点の一つ目に触れた透明性の問題も含めて、オリンピックのあり方はもう一度根幹から考え直すべき時期にきているのだと思う。それは84年大会が過去のオリンピックが抱えていた問題の解決策として行われたのと同様に、である。

100年を超えるオリンピックの歴史を考えれば、今回の開催が決定的にオリンピックの価値をなくしてしまうものだとは私は思わない。しかし今のままのオリンピックの開催形態を続けることはオリンピックの価値を毀損し続けることにつながり、それがやがてはオリンピックの価値を再起不能に貶めてしてしまう可能性もあるだろう

これまでの約40年のやり方を捨てることは、既得権益を捨てなければいけない人たちが出ることにも直結するため、そう簡単にいかないであろうことは容易に予想がつく。しかし今回このコロナ禍という大きなゲームチェンジのタイミングで東京2020大会が開催され、そこでこの問題がクローズアップされたことは、言ってみれば一つの転機と考えることができるのではないだろうか。コロナの問題で社会全体が大きく変わる時に、オリンピックもまたそのあり方を大きく変える絶好のチャンスではないかと私は思う。

そして最後に思うのはオリンピックのデジタル化である。検疫が強化されている中でどのように選手や関係者をスムーズに入国してもらいながら検疫体制をしっかり守るかという点で、元々指摘されていた日本のいわゆる「水際作戦」のアナログな対応状況がこの問題に輪をかけてしまったという問題はそのひとつである。

だがそれ以上に、新型コロナウイルスの影響で1年延期となった割には観戦方法をデジタル化する模索がない(ように見える)まま無観客開催という事態になったことは少々残念に思う。たった1年で大きな変更は難しかったであろうとは重々承知した上で言うのだか、例えばチケットを既に買っている人にはデジタル観戦を選ぶかチケットの払い戻しを選ぶかの選択肢があり、デジタル観戦を選んだ人には、通常のテレビ放送などでは得られない特別な観戦体験を自宅の各種デジタルデバイスで楽しめるといった方法を考えることはできなかっただろうか。全ての競技・全ての観客においてそれが出来なかったとしても、一部の競技・観客だけでも試験的にデジタル観戦できたのであれば、感染症対策に留まらず新たなチケット販売の可能性をテストすることができたのではないかと思う。

今後も引き続きテレビでの観戦が主流であり続けるとは思うが、日本では一人世帯が増え、若い人であればテレビを持たずにスマートフォンやタブレットなどがメディア視聴の中心になってる人も増えてきている。そうした中でこれまでのテレビ観戦とそれに伴うCMスポンサー収益に頼るオリンピックのあり方は、言ってみれば「昭和的」であると言わざるを得ない。新型コロナウイルスの問題でオフィスへの出社が制限されたりリアルイベントの開催が難しくなることによって、様々にオンラインでの活動の在り方が模索されてきたのがこの1年だったと思う。その成果をオリンピック観戦に対しても、試験的にでも反映できたなら未来につながることだったと思う。

そうしたオンライン観戦が可能と分かれば、今後はオリンピック開催国に住む人が足を運んで観戦することに加えて、開催国外にいる人たちが自分の自宅でデジタルデバイスを活用しながらテレビ観戦以上の観戦体験をすることができるなら、そこに課金をすることも可能になるだろうしその売上げが相応の収益を生むのであれば、オリンピックの収益構造をロス五輪以来のあり方から変えていくことの一つの契機にもなるはずだ。

人により考え方は様々だと思うが、今回の東京2020大会はこれまでのオリンピックのあり方の問題点を非常に明確に浮き彫りにしたと私は感じている。次回以降の五輪は日本の開催ではないから関係ない、という方もいるかもしれないが、指摘した3点の問題は実は、五輪以外に共通する課題なのだ。1と3は特に日本にあてはまるが、2点目は今後の資本主義のあり方として世界に共通する課題である。なので、日本は五輪が終わってもこれらの課題と向き合い続けなければならない。

こうした日本の課題を非常に明確に浮き彫りにしたという点で、今回の五輪には大きな意義があり、日本にとっての五輪の成果の一つであり、それを無視してはいけないと思う。

そして、東京2020大会の反省も踏まえて、こうした課題は若い人たちに主導権を取って考えてもらうべきことではないかと私は思う。それは年上の世代が責任を放棄するということではなく、年配の世代はそうした若い人達をいかにサポートするか、という姿勢で関わっていくべきタイミングだと思うのだ。「未来につなぐ転機」にできるかどうかは、私たち次第なのだ。


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