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行動経済学から考えると、「もしもの備え」としての国消国産は、良い策ではないかも

パンデミックなど、国際的な行き来や貿易が制限された時への備えとして、国消国産が必要である、というお題です。

しかし、何かが「必要・不要」と断言された時には「それホント?」と疑いたくなるのが人の常。ということで、この雑文では国消国産についてへそ曲がりに検証してみたい、と思います。

さて。

新型コロナ流行の初期、大阪と兵庫において、知事独自の判断で住民の行き来を自粛を呼びかけました。

思考実験として、これを単なる自粛ではなく、強制的に県境をまたいだ往来を禁止したらどうなったか、と考えてみましょう。ついでに、大阪と兵庫だけではなく、すべての都道府県で同じ措置が取られたとしましょう。思考実験ですので、「知事権限でそこまでできるのか」など法的・自治的な評価は度外視でお願いします。

ればたらの無責任な発言なのですが、早い段階でこの措置がとられたら、その環境下では流行拡大の様は、違っていた様に思われます。特に初期、感染者が発生していなかった岩手県の様な自治体では、もしかしたら発生が抑えられていた、かもしれません。

その様な状況下で、県外からの感染リスクを抑えるために、県内で消費するものは、県内で生産できる様にしよう、というアイデアが出てきたら、これは「県消県産」ということになり、これは規模こそ違えど、国消国産と同じ考え方である様に思われます。

では次に、発生した病気がコロナの様な致死率が低いものではなく、エボラ出血熱の様な危険なものだったとしましょう。かつ、このウィルスはコロナの様な感染力を持っているのです。

そうすると、県間の移動、という様な悠長な話ではなく、市や町をまたいだ移動の規制、という具合に粒度がエスカレートするかもしれません。この時出てくるアイデアが市消市産や町消町産です。

これほどに危険な状況であれば、なんなら各世帯で自主的に引きこもり、外界とのやり取りを遮断する、ということになるかもしれません。となると、各世帯で消費する分は責任持って備蓄をしておくという、世帯消世帯備が提唱されるかもしれません。

ドタバタSFの様になってきたのでこの辺で止めておきましょう。

県や市や町を単位にしたこの様な措置は、境界の外はいざ知らず、内側はなんとか聖域としたい、という些か自己中心的な考えが根底にある様な感じがします。

自県民・自市民のみが食べられればいい、というのではなく、困ったところには一方通行で寄付・販売をする、というのであれば、公共感が多少は出ますが、しかしこれとて自県民の分を確保しないうちから、他の県に食料を卸す、ということではない様に思われます。

また、人口密度や既存の産業構造から、簡単に府消府産や都消都産に踏み切れない都市部をどうするのか、という問題もありそうです。

などなどと考えてみると、都道府県や市町村を単位とした「XX消XX産」は、手放しに正しいこと、良いこととは言えないのではないか、と思われませんか?

ところで、不思議なことに、都道府県と比べて、国を単位にすると、この感覚が薄くなるような気がします。これは、

・「国民」という概念が、個人のアイデンティティの中で大きな要素を占める

・「国境」を超えるのはパスポートが必要だったりして、大ごとである

ことから、国境を境に「あいつら」と「俺たち」という感覚を持つことがそんなに不自然ではなく、「俺たち」の利得を優先することにあまり違和感を感じないから、なのではないかと思います。

しかし、現代では国家は(日本国内の都道府県もそうである様に)支え合って存在していますし、国籍が違えど、人と人の間には差異よりも遥に多くの共通点があります。

パンデミックなどの非常時の備えに、自国民を食べさせられるだけの食料を生産すべし、という考え方は、一見正しい様でいて、少なからぬ論点を含んでいる、と言えそうです。

パンデミック以外の備え、ということにまで視野を広げると、戦争も国消国産と整合的な事態であり、この場合はそもそも自国と他国が係争状態になるわけですので、共通点>差異だなどと言っている場合ではありません。

しかし、戦争は起きない方が絶対的に良く、戦争の可能性を鑑みることによって、その戦争を助長する様な「あいつら」と「俺たち」という思想の素となる施策を実行するのは、何か順序が違うのではないか、という気がします。

こんな考え方は理想主義に過ぎる、というご意見ももちろんあろうかと思います。これはあくまで筆者の考えです。

見方をちょっと変えてみましょう。パンデミックの時を想定して国消国産、という考え方は「もしもの時の備えをどうするか」という命題に対する考え方です。

人間はこの「もしもの時」への対応が、必ずしも得意ではありません。

たとえば、人は、まず絶対当たらないと分かっているのに、宝くじを買うのが好きです。あるいは(キリのいい年齢の例として)60歳までに命を落とす可能性は5%程度であるにもかかわらず、大半の勤め人は生命保険に入ります。

行動経済学で損失回避バイアス(人間は同じ金額の利得と損失ならば、損失による心理的なインパクトを大きく感じる傾向)を説明するプロスペクト理論では、滅多に起きない、可能性の低い事態に対しては、人間のこの性向が逆転すると指摘しています。わかりやすく事例で説明すると

<ケース1>

(1)必ず100万円もらえる

(2)コイン投げをして、表が出れば200万円もらえる

というケースでは、両方とも期待値は同じであるにもかかわらず、大半の人は(1)を選ぶのに対して、

<ケース2>

(3)必ず100万円支払わなければならない

(4)コイン投げをして、表が出たら200万円支払わなければならない

というケースでは、やはり同じ期待値なのに、(4)を選びがちです。

<ケース1>では利得を確定させたいのに対して、<ケース2>ではなんとか損失を避けようとする、この性質が「損失回避バイアス」です。

しかし、宝くじや自身の死亡など、滅多に起こらない事象に対しては、損失を確定し、利得は増幅させたくなる、という次第。

話を国消国産に戻すと、パンデミックの様な滅多に起こらず、その規模が想定しにくいことに対しても、人は(生命保険に入りたくなる様に)備えをしたくなります。しかしこの種の対策で完璧を求めると、コストが嵩むのはご案内の通り。「では、どこで線引きをすべきか」ということをバイアスに惑わされずに決めなければなりません。

念のために。これは、備えをすることが全く必要ない、ということではありません。備えは合理的な範囲でしましょう、という考え方です。

国消国産にも、その実施については「食料は自給自足可能にする」という様な完璧を期すものから、「人間のエネルギーとなる穀物必要量の80%は自給自足できる様にする」という、ミニマムを狙ったものまで大きな幅があります。

滅多に起きないことを想定した備えは、ともすると過剰な方向に傾きがちである、というのがプロスペクト理論からの示唆なので、国消国産の方向に政策や思想の舵きりをするにしても、理知的なレベル設定をしたいものです。

以上、「「あいつら」と「俺たち」という感覚」及びプロスペクト理論の2視座から、国消国産を考えてみました。読者の皆さんは、どうお感じですか?

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