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お金があってもマスクは買えない

新型コロナウイルスの蔓延で、スーパーやドラッグストアの店頭からマスクやトイレットペーパー、ティッシュペーパーなどが軒並み姿を消したことは記憶に新しい。

ここしばらくでトイレットペーパーやティッシュペーパーなどは随分見かけるようになったが、マスクは相変わらず手に入れることが困難だ。この記事によれば、日本でマスクが一気に買われたのは1月下旬だったようだから、すでに品不足は3か月近く続いていることになる。

これは一つには、国内産のマスクは少なく、7割が中国産であるという事が理由になっているのだろう。マスクは新型コロナウイルス問題で一躍戦略物資と化し、主要生産国である中国は、これを外交手段として使っている。

また、買い占めたマスクを法外な値段で転売したり、なかには転売規制をかいくぐって送料を法外な値段で設定し、安いと思って購入したら送料がびっくりするほど高いことに購入後に気が付いた、という話も聞いた。最近では、政府による布マスクの郵送配布に乗じ、マスクを勝手に送り付けて一儲けしようという動きも出てきているようだ。

こうした事態に直面した私たちが気が付いたことは、「お金があってもマスクは買えない」という現実である。これまでは、お金さえあれば何でも買える、お金がすべて、というお金万能の神話とでも言ったものがあったが、その前提が崩壊したということだ。これは別な言い方をすれば、過度に進んでしまった資本主義がほころんでいる、という見方をすることもできるかもしれない。

その一方で、「マスクは足りているか?」という連絡を何人かの友人や親類から頂いた。自分の手元に少し余裕があるから、足りないのであれば融通するよ、ということなのだ。
私は花粉症でもあるので、年始に今シーズン分を買っておいたのが幸いして、マスクはまだ何とか手元にあるため、こうしたありがたいお申し出については感謝とともに辞退した。むしろ私の方から医療関係の仕事をしている知人などにマスクは足りているかと声をかけていた。

これは、お金があってもマスクは買えないが、相手のことを気遣う人と人の関係があるとマスクが流通する(可能性がある)、ということだ。しかもその場合、おそらくマスクを譲ってくれようとした親類縁者はもちろんのこと、友人達も、マスクを譲ってもらったとしても、その対価としてお金を受け取ろうとはしないだろう。

もともと、贈与経済とか喜捨という経済行動が人間の社会にはあった。これが資本主義の高度化・進化によって、すべてがお金に還元され、何でもお金があれば手に入るという錯覚が私たちの中に生まれ、そうしたお金を介さない価値交換の存在感が薄れていたのだと思う。

しかし、人の動きはもちろん物流も滞りがちとなっている昨今の状況では、お金があれば何でも手に入る、ということは実は幻想に過ぎなかったということを、いま我々は痛切に実感しているところだ。

今後実際にそうなるかどうかは分からないが、一部では食糧危機が起きるのではないかという懸念があり、そのために自国からの農産物等の輸出を制限する動きも見らる。

このような事態になった時には、いくら手元にお金があっても物が買えないということが現実味を帯びてくる。

マスクであれば、医療関係者などを除けば手元になくてもいきなり命に関わるということはないだろうが、食料が手に入らないとなった時には、いくらお金を持っていてもそれではお腹は満たされず、生命を維持できない。

平時であれば、自分がもっている(例えば)リンゴ1個を1億円で買うといわれれば、私も含めほとんどの人が何の躊躇もなく売って1億円を得るだろう。しかし、飢餓状態で食べなければ死んでしまう、という状況でたまたま手にしたリンゴ1個を、1億円で売ってくれと言われたらどうだろうか。相手が家族や知人友人なら銭金抜きに分け合うだろうが、見知らぬ「金持ち」からそういわれて、躊躇なくカネとリンゴを引き換えるだろうか。

お金のやりとりとは、平時には普通のことだが、極限の状態においてはお金は何の意味も持たない可能性がある。いくら大金をもっていたところで自分の命が絶えてしまえば、それは何の価値もないからだ。

このようにして、今回の新型コロナウイルスは、お金の存在価値というもの、あるいは今の資本主義の在り方についても、我々に再び考えなおすことを迫ってきているのだ。

そうであるなら、これまで空気のように当然と思ってきたビジネスのあり方も、いま一度きちんと考え直す必要があるな、と、「マスクをわけようか?」と連絡をくれた友人の声を聞きながら考えていた。

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