「慣れ」と「飽き」で二分される社会
新型コロナウイルスが社会的な問題になって、4ヶ月ほどが経とうとしている。全国で緊急事態宣言が解除されてから約1ヶ月が経ち、東京の街中を見ると、元の生活が徐々に戻ってきているように感じる。
外出自粛中はガラガラだった電車も徐々に乗る人が増えて、コロナ前ほど混雑しているとまでは思わないけれども、時間帯によってはかなり乗客の数が増えたという実感がある。
こうした中で人々は、いわゆるウィズコロナの状況に「慣れた人」と、それに「飽きた人」に二分されてきているのではないか、と思う。
ウィズコロナの状況に慣れた人は、今でも基本的にはリモートワークあるいは在宅勤務を継続し、外出も必要最低限にとどめて生活をしている。状況が許す人のなかには、都会から地方に移住を検討し、すでに移住をした人もいるかもしれない。またオフィスを都心持つことをやめることができる会社は、都心のオフィスを縮小したり撤退したりしはじめているようだ。
一方で、ウィズコロナの状況に飽きてしまった人は、元通りに出社し、ランチや夜には飲食店で食事やお酒を楽しみ、カラオケやいわゆる「接待を伴う飲食店」に行ったりして過ごしている人もいるようだ。残念ながら、そういった行動の中から新たなクラスターが生まれ感染者が発生する、といったことも起きているらしい。
この「慣れ」と「飽き」、どちらが正しいとか望ましいということを、一概に言うことはできないと私は思っている。もちろん、感染予防の観点から言えば「慣れた」人の方が感染する確率は低いだろう。一方で人間が社会生活を営んでいく必要があり、経済を立て直していかなければならないという観点からみれば、「飽き」て元の生活・活動に戻っている人たちのほうが、経済的なダメージをおさえる効果があるだろう。
人間も生物である以上は、その生存の仕組みとして、多様な個体が異なった選択をすることによって、最終的に種としての個体が全滅してしまうことを防ぐという自然界の法則が働いているのだと思う。そう考えると、このウィズコロナの状況に「慣れている人」も「飽きている人」も混在していることが、人間という生物の種にとって自然な状態であるのだ。
ただ、「慣れている人」にも「飽きている人」にも共通するのは、すでにコロナにまつわる話というのは食傷気味なようである、ということだ。メディアに勤める人から聞いた話だが、緊急事態宣言が発令されている間はコロナのことを取り上げた記事が読まれていたけれども、宣言が解除され、6月に入って以降はそういった記事への関心が徐々に薄れているという。
ただ、いずれにしてもコロナウイルスは引き続き存在していることは間違いがないし、またいくつかの調査結果によっても、日本で感染している人は、まだ100人に1人にも満たない、というの状況のようだ。
これは裏を返せば、まだまだ感染する可能性がある人の方が圧倒的に大多数であり、集団免疫を獲得するにはほど遠い、ということである。
新型コロナウイルスの治療薬の価格が約25万円に設定されたというニュースがあった。
仮に保険で3割負担だとすれば、個人負担(※)は治療薬だけで75,000円である。
(※ 8/3追記訂正:新型コロナウイルスは指定感染症なので、医療費は全額公費負担となるとのことです。)
これが安いか高いかは、個人によって違うだろうが、他の治療薬と比較して、決して安いとは言えないだろう。保険で負担するといっても、最終的には私たち自身が払っている保険料から出ていくお金であり、仮に公的な補助があるとしても、そのお金の出どころは、やはり私たち自身が払っている税金だ。経済を回すことも重要だが、感染にともなう社会的コストが経済的利益を上回るのであれば、経済活動をする意味がなくなってしまう。
いずれにしても、「慣れた人」と「飽きた人」に二極化し、分断しているという状況が生まれ始めているような気がしている。これが今後どのような社会状況を生み出していくのかはまだわからないけれども、慣れている人と飽きている人で異なる経済圏が生まれていく、あるいは異なる経済活動が志向されるということが起きてくるのかもしれない。
消費者一般を対象としたビジネスにおいては、「慣れた人」向けのものと「飽きた人」向けのものを、分けて対応していく必要があるのかもしれないと、最近思っている。
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