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やり直せない日本人―日本をダメにした折角③

鹿は神、神の使いだと日本ではいわれる。世界的観光地である奈良の春日大社や興福寺や東大寺や奈良公園や若草山や奈良県庁には、鹿がいたるところにいて、鹿に寄っていく外国人の姿をコロナ禍前によく見た。奈良の鹿は角が生えていようがいなくとも、人に近づき交流してくれる。餌をあげることすらできる。これがすごいことだと、外国人はいう。

1.折角の語源

鹿のイメージは、外国と日本では違う。外国での鹿のイメージは狂暴。哺乳類のなかでも、野生の鹿は狂暴で、熊や猪よりも恐れられたりする。鹿の最大の武器は角で、角で人を害したりもする。しかし奈良の鹿は温和しく人気がある。愛らしい顔で人に近づいてくる。外国人にはその姿が不思議で、とても喜ぶ。ただし日本でも野生の鹿は決して温和しいわけではない。

折角の語源である。ここで鹿が登場する。その狂暴だという鹿の角を、不思議な力を持って折ることができるという人がいた。鹿は角を折られると弱くなる。にもかかわらず鹿の角を折るような人なのに、うまくいかないことがあったので、

「折角…なのに」が生れたというのがひとつの謂れ。

折角は表意文字であるので、なにかの姿をあらわしたものである。中国の清の時代に、みんなから尊敬されている人が頭巾の角を折った。その姿を見たまわりの人たちは、立派な人がわざわざ頭巾の角を折ったので、これにはきっと意味があると思い、まわりも真似をして頭巾の角を折った。わざわざ頭巾の角を折ったので、

角を折る(「折角」)ことを「わざわざ」といったという謂れもある。

もっとあるようだが、折角という言葉ができた出自や背景が不明なのに、なぜか日本人はこの「折角」を多用するようになった。

 「折角だから…」と言うのは、自らの「先行者の利益、年配者の利益、既得権益」などを死守しようとするときに、よく登場する。そういう目的で、折角…という日本人が多い。だめなものはだめだし、おもしろくないことはおもしろくないのに、自分・自社を守ろうとする。甘えの構造そのもの。他人に対してもいう。

   「折角、ここまでやってきたのだから、もう少し頑張れよ」
   「折角、頑張ってきたのだから、やめるなよ」

という言い方もする。折角を持ちだして、やめようとする本人の翻意を促そうとするが、本人はそう思っていないことが多い。その感覚が海外にはなかなか理解しにくい。この折角を英語に翻訳するのは難しい。

2.辛抱・我慢に対価を求める日本人

日本人は辛抱する・我慢する国民だといわれる。ここにも折角が出てくる。日本人は辛抱・我慢に対して、対価を求める。折角してきたのだからと言って、対価を求める。しかし対価を求める辛抱・我慢とは、手段である。手段である限り、結果が伴わないことがある。こういう言い方もする。

折角、下積みに耐えてきたのだから、部長にしてもらわないと困る。

と対価を求める辛抱・我慢を持ち出す。そんな折角は論理的ではない。折角もへったくれもない。

また市場が衰退して、残っているパイをみんなで分け合うような段階になったとき、その事業をやめるということは、「折角、これまで取り組んできたことが水の泡になるから、今のうちにとれるものはとろう」となる。しかしだめだったら、その事業をやめて、早目に他の事業に切り替えたらいいのだが、今していることを見限り・見切らない。だから気がつけば、取り残される。

“やってみなはれ”

という有名な言葉がある。“やってみてその結果を受けて、次をまた考えたらいい”というニュアンスであって、とりあえずやるというのではない。チャレンジする価値が思っていることを何度も何度も取り組む。今やっていることが駄目だと思ったら、折角もへったくれもなく、別のことをすればいい。

しかし先に始めたことが水の泡になることを怖がる。たとえば5年間のプロジェクトに取り組んでいて、それが頓挫すると、それまで自分が費やしてきたことがパーになってしまう。そうすると自分が否定されたような気になる。だからやめること、撤退することをとても嫌がる。

戦場を例にとる。折角、二百三高地まで行ったのだから、これだけ戦死者を出したのだから、最後までやらないといけない。そうではない。戦死者を多数出しているという作戦が間違っていたら、やめたらいい。しかし「折角…」と考え、いくところまでいってしまう。これはビジネスも同じ。

先に生まれたこと、先に始めたこと、一度手に入れたこと、それを今さら水の泡にはできない。後続者たち・後輩たちに対して差をつけたままでいたいという思いが根底にある。それが、折角につながる。

3.「仕方がない」と思えたら再チャレンジできる。

  折角、洗濯物を干したのに、雨が降ってきた。
  雨が降ることは自然現象で、仕方ない。

これである。折角と思うことを水の泡にする。だってそれは仕方ないじゃないか ― そう思えたら、再チャレンジできる。

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会社もそう。今の会社にしがみつこう。この会社を辞めたら転職も起業もうまくいかないかもしれない。だったら今の会社で辛抱・我慢しようという雰囲気 ― それも折角で、みんなで分かちあおうとする。

その「折角」が失われた10年が20年になり、30年になった日本社会を支配している。その折角を水の泡にする。水の泡とは、水の中に泡ができて、最後にパンと割れて無くなること。それを日本人は無駄に思う。しかし水の泡でありつづけられるものはどれだけあるのだろうか。

西洋人は「万物は流転する」と考える。ずっとそのままであり続けることはないという考えや折角という概念はない。社会・市場は変化しつづけるのだから、水の泡のように消えていくのは当たり前だと考える。

一方、日本人は鴨長明の「方丈記」の「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」が好きだが、水の泡になることをひどく恐れる。“ざまをみろ、これで水の泡だ”という嫌味はあっても、

  “折角の自分の努力が水の泡になる”
  “折角、この仕事を長年取り組んできたのに、水の泡になる”
  “折角、この人についてきたのに、水の泡になる”

ということを恐れる。水の泡にしたら、挽回が効かないと思ってしまう。挽回が効かないとは限らないのに、そう思いこむ。

なぜ「折角…」と言うのだろうか。なんだかんだいうが、日本人は楽をしたいと思っているからではないだろうか。偶然手に入れただけだったりとか、先に始めただけなのに、「折角…」と思って、それにしがみつこうとする。それを水の泡にする。それを水の泡にして、次にチャレンジしようとしない。

順番で並んでいて突然誰かがその列に割り込んでくると、日本人はひどく怒る。折角、早起きして、並んでいたのに、どうして割り込んでくるのと思う。割り込みは良いことではないが、それにひどく怒るのは「折角」だから。ボクが、私が折角こうしてきたことが水の泡になるじゃないか。これは、そのとおりだとみんな思うだろう。

しかし会社で長年勤めてきたが、会社に貢献する実績を残すことができなくなったら、「折角、頑張ってきたのに、会社に認められないのは許せない」という人に対しては、”自分のことが全然判っていないのではないか”と思ったりする。かくも他人のことに対しては厳しいが、自分自身のことは見えていない、甘い。

結果が出ないこともある。それは仕方ないのだ。
仕方ないと思うことで、「折角」から解放される。「折角」を水の泡にしたら、再チャレンジできる。“折角、はじめたのだから、続ける” “折角、やっているのだから、辞めない”。折角というときは、その状況はたいてい「水の泡」になっている。

だから折角を水の泡にするのは、仕方ない。折角を水の泡にする。そうすることで、今の状況や環境をゼロに戻せる。折角を抱えている限り、呪縛に囚われる。「折角…したのだから」で、情勢・状況判断を誤ることが多い。
「折角を水の泡にする…それは仕方ない」と思えたら、やり直しできる。

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