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「クリエイティブ」が強調される時代において、「職人」である意味は?

海外の顧客とも仕事をしている、あるいは海外を拠点としている日本人の職人を紹介している特集、記者の堀聡さんが書いた「GlobArtisan」(グローバルチザン)」全5回の記事を興味をもって読みながら、この類の記事から漂う匂い、または違和感は何なのかを考えていました。

日本の人がいろいろな領域で活躍しているのはもちろん喜ばしいことです。だが、若干、その活躍を大げさに表現する傾向にある・・・でも、連載の途中で違和感の要因は表現ではないとはたと気づいたのです。その違和感を出発点に、いろいろと思いをはせたので、それらをここに書いてみましょう。

ほんとうは「便利な番頭」にとどまりたくない

これまで、欧州のそれなりに名の知れた建築事務所やデザインスタジオにおいて、日本の人が働いている姿をかなりの数、見てきました。高く評価されている人も多いです。ただ、往々にして「便利な番頭」であるケースが目につきます。模型も器用につくり、スケジュール管理にも熱心。雑用もあまり嫌がらずにこなす。トップとしたら頼りにしたいでしょう。

しかし、クリエイティブなところでリーダーシップをとり、かつそこに正当的評価がついてきているか?「あれは、実はぼくのアイデアなんだよ」と後で裏話的に使っていないだろうか?こういう疑問がついてまわることが、少なくないのですね。日本のクライアントを前にした時は、「この日本人の〇〇がとてもよくやってくれて」とトップは日本人スタッフをもちあげます。

だが、欧州のクライアントを前にしたとき、同じように褒めているか?場合によっては、そこに日本人のスタッフが存在していたこと自体をあえて表にしない・・・過去、こういうシーンをみてきたぼくは、器用さを発揮する作業や実務作業とクリエイティブな仕事の間に評価の一線がひかれていることが気になっていました(今はより多様化しているため、このようなことが減ってきたと期待したいですが、この傾向がまったくなくなったわけでもないでしょう)。「真面目にやってくれているけど、クリエティブ面はそこまで評価できない」と。

クリエイティブへの正当な評価

クリエイティブでまともに、裏表なく評価されなくちゃあ意味ないじゃない!と思ったのです。それが冒頭で述べた違和感の深層にあったのです。職人は真面目ならいいのか?

民族差別やコミュニケーションの問題が潜んでいるのは明らかでありながら、その点を明確に浮彫にすれば日々の仕事がしずらくなると分かっている本人は、この点を表沙汰にしたがらない。だいたいトップは、それを認めるはずがない。

だが、この不足とみなされやすい部分が、職人の場合、さほどマイナス点になっていないと思ったのです。ちょうど、科学やエンジニアリングの領域では、世界のどこにいようと、誰でも比較的公平に評価されやすく、コミュニケーションも第一の障害要因とみなされないと同じです。かつて、日本企業が高品質の工業製品を生産し、海外市場に販売している限り、異文化コミュニケーションが不十分でも通用したのも同様です。

その観点において、日本人の職人、それもスーツや靴、時計など西洋文化が基準となっている分野の職人の仕事ぶりが受けるのは、(ある意味、残念ながら・・・との注釈を必要としながら)極めて合理的だと解釈できます。それでは、日本の職人は、本国の人が職人仕事に関心を失っている穴埋めとして、器用と生真面目との次元で評価されるのを目指すのか?

料理の世界ではクリエイティブなレイヤーでも評価をうけている事例をみれば分かるように、クリエイティブな能力の問題そのものよりも、クリエイティビティをどのような枠組みとして提示するかが、テーマになっているわけです。

職人であるのは生き方の選択でもある

だが、およそそういう枠組みを考えるのが好きではない人が職人技で生きようと思ったりするものです。ひたすら好きなことに自分の手を動かしていたいから職人になるのであって、いちいち概念とか面倒なことを持ち出すな!と話す職人ともたくさん会ってきました。

その一方、だからこそ自分の技を軸に顧客をとっていけるはずと見込んでいる職人は、思いっきり羽ばたきやすい。イタリアの中小企業の成り立ちの特徴について、僕の『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』にも書きましたが、イタリアの職人には「これ、いいだろう?」と自分のつくったものを営業するに厭わないタイプがそれなりにいて、このタイプが起業するわけです。職人は寡黙で商売には情熱を示さないと想像するのは、ステレオタイプすぎるのです。

堀さんが記事で紹介された職人の方々は、活動的で商売にも熱が入っているところをみると、脱ステレオタイプなのだと思います。それでもデザイナーとは違う頭の使い方をします。かつて、職人とデザイナーの違いは何か?と聞かれたあるデザインの巨匠は、「椅子とは四本の脚があり座面があるものと考え作るのが職人。デザイナーは階段の一つに座布団をおいたのも椅子と考える」と答えた例があります。「意味のイノベーション」にタッチしないのが職人ということになります。

またアーティストに、職人とアーティストの違いに聞いたとき「職人は扱う材料と技術の枠組みでの伝承をメインにおき、アーティストはアート史のなかでの評価に注意を傾ける」との答えが返ってきました。つまり、寡黙で人付き合いが苦手とかではなく、重視するポイントに差異があって、職人、デザイナー、アーティストという区別が成立するのです。その点で職人であるのを選ぶのは、生き方の選択であると言ってよいでしょう。

尊厳とエコシステムの視点で見てみる

職人とのジャンルが日本の人が(良くも悪くも)得意としやすいのは前述のとおりです。それでは、これを個人的な生き方というレイヤーから離れた産業レイヤーにもってきたとき、何を考えるのが良いのでしょうか?

一つはイタリアの生産システムの方向ですね。小さな工房における職人仕事とのレイヤーと、それなりの工場の「中規模量産」にあるレイヤーが絶妙に繋がっているのです。それは商品ランクによる生産ラインの使い分けもあるし、あるいは試作品と量産品の使い分けというケースもあります。また、機械が中心の量産ラインにおいても、必ず人の手が入る工程を差し込むことで、「そこだけでしかできないもの」をつくっていくのです。

このような場合、その手作業をする人を「職人(イタリア語の場合、artigiano」と称するのか?「工員(イタリア語の場合、operaio)」と称するか?は、職場で働く人たちの尊厳に対する経営陣の敬意の表し方で違ってきます。いずれせよ、職人として重用するのが、結果的に経営戦略としてプラスである事例は少なくないとは明記しておきましょう。

もう一つ、エコシステムとの観点です。どこの国の人であろうと、そのジャンルのレベルの高い人が世界中から集まってくることを産業政策の第一義におく、との考え方ですね。堀さんの連載でも使われている「ウインブルドン現象」がこれにあたります。ミラノのデザインが評価されるのは、イタリア人デザイナーの才能ではなく、アイデア、試作品、発表までをふくめたシステムが評価されるからです。欧州に人気のサッカー選手が集まるのも、サッカーのエコシステムです。

例えば、アートについて言えば、フランスはアート立国でした。印象派前後にアーティストの集合場所としてのパリがありました。世界中の美術品を集める美術館があり、文化予算の割合が国家予算のなかで大きなことも、芸術大国としての評判を支えていました。しかし、この20年間、アートのなかでコンテポラリーアートの位置があがり、取引額での中心は米国や中国または英国に移動します。

フランスはアーティストの国籍でも、取引の場としても劣勢になります。そこで逆襲に転じる契機として、今年からパリで開催する従来のアートフェアを国際的ブランドのあるアート・バーゼルに置き換えることにしました。これはフランス人アーティストの活躍よりも、才能ある世界のアーティストがパリに集まるのを促します。一方で、フランスの公的美術館がフランス人アーティストの作品を買い上げる財政支援も行います。

以上の2点を考慮すると、日本の企業や行政の考えるべき項目は次の2つになると思います。

1)これからより重要になる(限界のみえた大規模量産ではない)「中規模量産」と「職人」の協力関係を築けるような仕組みをつくり、2)「職人」のパスポートを問うのではなく、職人仕事に賭けたいとの人生を選んだ人が尊厳をもって才能を発揮できるエコシステムをつくる。

写真©Ken Anzai

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