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これは、あるデータサイエンティストの崩壊と再生の物語

データサイエンスという新しい学問が引っ張りだこなのは、ビッグデータ時代が到来したからです。IT(情報技術)の発達で、社会に膨大な量のデジタルデータが蓄積され、観察、利用できるようになってきました。
公的な統計に加えて、インターネットの検索記録、携帯電話の通信記録、購入記録など、日常生活で自動的に大量のデータが蓄積されています。この膨大なデータが企業の経営判断や政府の政策決定、ビジネスパーソンの仕事などいろいろな目的に使われるようになってきたのです。「21世紀はデータの世紀」と言われ、「データは新たな資源」との見方も出てきました。
データサイエンスはデータを集計し、分析し、新しい知識や事実を見つけ出す科学的な手法です。それを仕事にしているのがデータサイエンティストです。

心の折れる音がした

「もっと驚くような示唆が欲しい、松本さんが言っているのは単なる事実でしょう」「君は数字ばかり見て、数字を生んだ消費者を捉えていない。こんなレポートに、お支払いはできない」

こんなことを言われた経験はありますか? 私はあります。

「今あるデータから重要な示唆を見つけて欲しい」と依頼してくれたクライアントの期待に添えなかったのは申し訳ないと思いつつ「何か分かりませんかでは、何も分かりませんわな!」と憤っていました。

もっとも「目的」を定めぬまま、曖昧な要件でとりあえず走った私の責任なのです。「何も分からないとわかっているなら、なぜそれを言わなかったのだ?」というやつです。

2015年当時、デジタルマーケティングはO2Oが盛んに叫ばれていました。マーケティングの媒体に「データ」が登場する回数が増え、ビッグデータ分析が持て囃され、私もビッグウェーブに乗ろうとデータサイエンスが学べる社会人大学に入学し、一端のデータサイエンティストを名乗っていました。

ところが、何度となく分析レポートを提出しても叱られてばかりでした。ある会社からは「顔も見たくない」と酷評されました。

そんなこと、あります? 私はただ、SEOの結果や、広告運用の結果に大して「何が起きているか」をコメントをしただけなのに。

ところが顧客は「なぜこうなったのか」「これから何をするべきか」について求めていました。酷評されて当然です。分析に対するギャップがあまりにも大きかった。

さて、酷評に酷評が続く中、大事件が起きます。

あるブランドのO2O分析の結果を、デジタル部門同席の元でブランドマネージャーに伝えるMTGが設定されました。レポートは事前にデジタル部門に隅々までチェックされ「これで問題なかろう」とお墨付きを貰いました。

ところが、発表も間も無いなかで「ブランドワードで流入したユーザーの直帰率は50%と非常に低く…」と発言したところ「話にならない!」といきなり怒られました。

「リアルの店舗なら、ブランドワードで入ってきて直帰率50%なんて考えられない。ブランドワードですよ? そのキーワードで流入して直帰するってどういうこと? 説明してよ!」

完全なる地雷ワード。そのブランドマネージャーは途中で帰ってしまいました。そんなこと、あります?

この事件がキッカケで、完全に心が折れました。ボキッ、って音が聞こえました。後にこのデジタル部門に梯子を外され「事前に見ていなかった」と言い出したことも要因の1つです。

以降、密かに転職活動を始め、定量とは真逆の定性の世界に足を運びます。


「分析」は才能なのか?

言葉を選ばず言えば、デジタルマーケティングにおける効果測定は「下流」だとずっと感じていました。分析レポートは簡単に握り潰され、数字による評価が経営層にまでフィードバックされるのは、主に単品通販だけでした。(2010年代半ばまでは、ですよ!)

一方で、定性の世界に移動し驚いたのは、思っている以上に「上流」はいい加減でした。練りに練ったアイデアがあるわけでもなく、冒頭に「数字を生んだ消費者を捉えていない」と酷評したマーケターと偶然にも再会したのですが、消費者を見てプロモーションしているわけでは無かった。

加えて戸惑ったのは、私にとってデータ分析=数字でしたが、定性は言葉を使って「データ分析」と表現していました。

ある日、オリエンテーションで「新しい"午後の紅茶"を作ろう!」というお題がありました。定性分析者は「雨の紅茶」「踊る紅茶」と言い出して、私は「こいつふざけてんのかな?」と思ったのですが、周囲は大絶賛でした。

「これは、ヤバイ世界に来た…」

そう思った一方で、私の考えた"午後の紅茶"は「午後の紅茶ロイヤル」「午後の紅茶スペシャル」みたいな、味の強化に特化した"ありきたり"な内容に終始していました。

加えて、メーカー側も真面目な人が多かった。

あるワークショップに参加した某企業の商品開発者はアイデア作りに悩みに悩んで、最後は涙を流しながら「なんで朝ごはん食べないんですか?」「朝ごはん栄養満点なのに…食べないのはおかしい…」と訴えていました。

誰もが「忙しいからや!」と訴えたでしょう。しかし、真面目過ぎるとそんなことも分からなくなる。

数字を使って分析するよりも、人の心を分析するのは難しい。だから、分析の目的は事前に徹底的にすり合わせる。そのことを定性分析で学びました。

ところが、どれだけすり合わせても、良いアウトプットを出せる分析者と、普通のアウトプットを出す分析者にわかれました。この違いは何だろう。ずっと悩んでおりました。

こんな例え話をすれば良いでしょうか。将棋のルールを覚えても、藤井聡太棋士のようになれるわけではない。しかし、将棋のルールを覚えなければ、将棋すらできない。では、どうすれば藤井聡太棋士のようになれるか?

私の導いた答えは「洞察力」でした。でも、洞察力って何だ? 後天的に身につかない才能なのでしょうか。

定性の分析者は「木から仏像を掘るようなもので、何を作るかは決まっている。木を見れば、仏像が作れるかはわかる」と言っていて「仙人やん!」と思ったのですが、実際には「言葉を見れば、背景がわかり、心理が見える」と言いたかったのでしょう。

すなわち、どんな物事も「因果関係」があって、バナナの皮や玉ねぎの皮をむくように、丁寧にときほぐせば、結論に到ると気付きました。そして洞察力とは「剥くべき皮に気付く」だと思ったのです。


心がしなやかに再生される

定量も定性も経験があるデータサイエンティスト、マーケター、リサーチャーは少ないと思っています。私は偶然にも両方をディープダイブする経験に恵まれましたが、だからこそ気付いた世界があります。

特に、データ分析=数字とは限らないと知れたのは大きいです。数字も言葉も情報の一種であり、データ分析とは「情報を活かした論理学」である、と気付けました。

加えて、洞察力≠インサイトとも気付けました。私たちはニーズを脳で考えますが、実際の行動は脊髄が反応しています。脊髄反射がインサイトだと捉えると、脳で考えた「答え」はとてもインサイトとは言えません。だから「雨の紅茶」は良いんです。

定性からインサイトに辿り着きたいのも、本当に欲しいのは「爆発的に物が売れるアイデア」だからです。いきなり「アイデア」が生まれるでもなく、まずは「仮説」を構築し、「仮説」を検証すると、少しずつ形になります。

「もっと驚くような示唆が欲しい、松本さんが言っているのは単なる事実でしょう」「君は数字ばかり見て、数字を生んだ消費者を捉えていない。こんなレポートに、お支払いはできない」

このように罵倒されてから、かれこれ6年が経過しています。そして、今なら分かります。私は「数字」だけを見て「市場」「事象」「消費者」のすべてを説明しようとしていました。それは、無理なんです。数字と国語、得意と不得意。それぞれを活かせばよかった。

私は、言葉を見ていなかった。


これは、あるデータサイエンティストの崩壊と再生の物語

2022年6月、マイナビ出版から「データ分析力を育てる教室」を刊行することになりました。

この書籍は、私がデータサイエンティストとして挫折を経験してから、再び立ち上がって挑戦するまでの、崩壊と再生の淵で見た・気付いた・理解したデータ分析の「本質」を記しています。

章構成はこちら。

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問い、仮説、観察と洞察、証明、コミュニケーションの順番に説明しています。分析はこの順番に消化していくからです。

マイナビ出版でデータ分析の書籍を出すと決まった時、まだ完全に体系化し切れていませんでした。そのおかげで、人生で初めて締め切りを2回伸ばしてもらい、およそ1年半かけて完成しました。

しかし、体系化できたからこそ再現性もあります。今なら事実だけでなく、示唆まで(ある程度は)導くことができそうです。

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この書籍は、私がデータサイエンティストとして挫折から始まっています。某駅のホームで悔し涙を流したり、私を面罵した会社の商品はしばらく買えなかったり、そうした血の苦労から生まれました。

「松本さんって、最初から分析うまかったんでしょ?」「定性も定量も極められましたね」と言われます。そんなこと無いです。ただ、血の苦労を通じてわかったこともあるんです。

そんな内容を記した書籍です。良かったら書店で立ち読みしていただいて、面白かったら買ってください。


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松本健太郎
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